白昼夢

いつも眠いひとが色々いうブログ

グッバイ、ドン・グリーズ!から受け取ったものたち

感想がとっちらかりすぎていてもう収拾がつかないのでそのまま載せます


以下一回目感想


よかった
最高だった
終始泣いておった

ねとらぼの記事のタイトルで「疎外感」という言葉だけ見ており(Googleの検索タブひっぱると出てくる「お前これ好きだろ?」って感じのやつででてきた)、ネタバレは踏むまいと読まないながらも「絶対好きだろうな」と思っていましたが、マジで好きでした
マジで好きです たすけてくれ
いつもなら感想を怒涛のごとく一時間くらいかけて打つのだがそれもできずにぼんやりしていた

映画館で涙がこぼれるほど泣いたりしないんですけどもう序盤からぽろぽろぽろぽろきていました
あまりにもいとおしくて……輝かしくて……
疎外感が身に覚えがありすぎて……切なくて……
本当にあまりにもあまりにもいとおしい
どんなに誰かが君たちを疎外したとしても、君たちは輝いているし、世界は美しい
すべてがきらきら輝いている……

何て言葉にすればいいかわからないな

何度も言うんですけど、わたしは「キャラのための物語」と「物語のためのキャラ」なら「キャラのための物語」が好きで、この作品はまさに「キャラのための物語」で、本当によかったです
キャラが動くからこそ物語が動いていく感じ
三人の男の子がいろんな表情をしながらドッタンバッタンにぎやかに動くので本当に見ていて泣きながらニコニコしていました

家に帰ってから入場特典のミニ冊子を読んだら、チボリのことやトトの恋の裏話なんかが監督によって語られていて、「ここまでキャラクターを作り込むから、キャラクターが動くからこそ物語が動くように見えるんだな!!」と思いました
みんなのことがよりいとおしくなるね……
ロウマとトトがハブられている理由はちゃんとキャラの説明とかを読まないとわからないかもしれないですね
恐らくロウマは日常的に実家でこき使われているのを同級生に見られているからで、トトはお腹が弱いからなんだろうなと思う

わたしは「疎外感」というものに本当に弱いんですよね
まず、ロウマ、トトというふたりが学校で浮いていて、ふたりだけの秘密基地があったりふたりだけのコンビ名みたいなものがあって(ドングリーズ)、そういう疎外感や孤立感のさみしさからくる連帯感、取り残されたからこそのふたりだけの特別!みたいな感じがすごく上手くてとてもよかったです
なんていうか、そこにある寂しさだけではなく、だからこそできた絆、みたいなものにスポットを当ててくれて本当にうれしい
誰かに仲間外れにされること、また、そんな意図はなくても不意のタイミングで枠から外れて楽しそうな人たちを見つめるしかなくなってしまうこと、その描き方が本当にうまい
身に覚えがある
ロウマとトトがふたりしか知らないことを楽しげに話しているときのドロップの表情、本当に切ない
わかるよ……
ドロップはずっとひとりだったんだろうなと思うと切なくて泣けてくる
寂しさ、孤独、疎外感、そういうものに本当に弱くて、そういうものがずっと好きで、なので、疎外感というあまりメインとして据えられないものをテーマのひとつとして据えた作品を作ってくれて本当にうれしかったです

よりもいのときは四人だからこそできたドラマだったけど(あれはちょっとイヤな方向に女の子ならでは感があったかも)、今回は三人だからこそ、しかも男子だからこそできる「男の子~~!!」って感じもよかった
女装したふたりとちゃんとした服着たひとりで転げてげらげら笑う男の子三人、最高でしょ……

「三人」という人数だからこそ、「三人」と「二人」と「一人」が描けるので(これは四人以上だと増えすぎてむずかしい気がする)、ひとつのテーマとしての「疎外感」を描くのに三人というのが本当にベストでよかったですね
まずひとりひとりが疎外感や孤独感を抱いていて、そしてロウマとトトというふたりになり、そこにドロップが加わって三人になる
疎外感を抱いていた狭い世界から飛び出して、井の中の蛙であることをトトは知り、トトの気持ちをドロップを通してロウマは知る、そして空を見上げたロウマは、星空と流星の美しさにあわてて二人を呼ぶ
一人、二人、三人、というドラマの連なりがあまりに見事
井の中の蛙大海を知らずされど空の深さを知る」なんですよね
三人で星空を見つめる、星の多さから自分はなんてちっぽけなんだと省みる、そして世界は美しいと瞳を輝かせる、そこで歌われるTwinkle,Twinkle,Little Starの楽しさよ……
トトが「太陽がいなくなるなんて寂しい」みたいなことを言うけど、ドロップは常に前向きに「でもそこに星があるってことだよ」みたいなことを言っていて、ドロップの秘密を知るととても切なくなる

この作品、ずっと終始「寄り道してもいいよ、遠回りしてもいいよ、サボったり余計なことをしても、その結果得るものが必ずあるよ」をやってくれていて、その結果本当にキラキラしていて、いとおしくてたまらなくて泣けてきてしまう
ドロップが常に進もうとして結果遠回りを選んでしまうの、生き急いでいるという意味でも、結果的に三人でいる時間が長くなるという意味でも、ぽいなぁと思うしエスプリ効いてるなぁと思う
まっすぐな道では得られないものが、曲がりくねったり遠回りしたり寄り道したりする過程では確実に存在するんですよね
それは経験であったり、人との出会いであったりする
ロードムービーであり、誰かと誰かを繋ぐ電話がキーアイテムなのもあって、やっぱり「足跡を残していくこと」なのかなと思います

ドロップが可哀想な感じじゃないのが本当によかったな
病弱描写とかもなかったのが逆によかった
病弱描写はなくてもどことなく儚い印象的なカットはいくつかあるんですよね……
わたしは中学生の頃から、金髪の病弱美少年が大好きなんですよ
明るく気丈に振る舞うけどどこか達観している男の子も大好きなんですよ……
ドロップ……
全部持ってるドロップ……
あぁ~~~ドロップ~~~……
好きすぎる 流星みたいな男の子だな……

ドロップがいなくなってからがある意味この作品の言いたいことなんだろうなと思うんですが、それはドロップと一緒にいた、ロウマとトトとドロップという三人でいた時間があるからこそ効いてくる尊いもので、あまりにも構成がうまくてひぇ~となってしまう
ふたりで旅するロウマとトトの隣にドロップがいるように感じました
もちろん三人でアイスランドの電話ボックスに行ってほしかった気持ちもありますが、たぶん三人で行ったならばああ見えて思慮深いドロップは自分の痕跡を隠そうとするだろうし、ドロップがそこにいた証、ドロップがロウマとトトの声を聞いた証は、ロウマとトト、ふたりだからこそ見つけられたものなんだと思うと、あまりにもあまりにも上手くて唸ってしまう

ドロップがいつも前向きでいて、それでいてどこか達観しているのは、いつ自分の世界が閉じるかわからないことを知っているからなんですよね
本当は普通に生きている健康な我々だって同じなのに、つい忘れてしまう
彼はロウマとトトをひっぱることで、見ている我々にも宝物を遺してくれた
ドロップみたいになりたい……

ドロップがいなくなったことは作品やキャラクターにとってただ哀しいことではなく、確実に何かを見つけられる鍵、プラスになっているんですよね
こう言っちゃなんだけど、ドロップはいなくなることに意味がある
誰かの死や喪失に意味を見出だせるのは、誰かがそれを想い行動するからなんだろうなと思います
やっぱり人間が動くから物語が生まれると思っているんだな

ドロップが髪を伸ばしている理由と、ドロップがいなくなってからロウマとトトふたりも髪を伸ばして寄付して、っていう描写あまりにもやさしくて好きだなぁと思い返していて思いました
ドロップの髪型もドロップの神秘性に拍車をかけていると思うんですけど、それに対する理由、あまりにも健気で本当に泣けてきてしまう
ドロップが好きだ……

わたしは将来の夢に「灯台をたてること」を掲げているのですが、本当に灯台のような映画でした
ここでいう「灯台をたてる」というのは、誰かに見つけてほしいと光る、あとに続く誰かのために道を照らす、そういうものをつくる、という意味で、小林大吾氏の「いまはまだねむるこどもに」そのものなのですが( https://suzuri.jp/TRINCH/1912185/t-shirt/s/black の説明文より)、本当にそういったエピソードというかそういうメッセージがあちこちにちりばめられていて、本当にわたしのための映画だと言っても過言じゃないという感じでした
ダイレクトに灯台が出てくるわけではなく、この映画では電話ボックスやTwinkle, Twinkle,Little Star、つまりきらきら星なのですが

電話ボックスとかコーラとかカメラとか、アイテムの使い方が本当に上手
全部「誰かに何かを伝えるためのもの」として描写されている
アイテムやモチーフの比喩やメタファーを考えるのが大好きなので、そういうのがそこかしこにちりばめられている作品は本当に考えていて楽しい

「ここにいるよ」と光る小さな星は、必死で電話ボックスを探して、たまたまロウマとトトの声を聞いたドロップそのものなのですね
そして同じくらい、その小さな星は、ロウマとトトでもある
「ここにいるよ」「見つけてくれてありがとう」そして、「またここへくる誰かのために」
ドロップはアイスランドの電話ボックスでまだ見ぬ未来の友達へメッセージを残し、ロウマとトトへ会いに来て(たまたま会えたのか本当に粘り強く探したのかはわからない)、友達になって、自分の最後を見届けてくれたふたりへメッセージへたどり着く雑な(ここも男の子!って感じでいい)宝の地図を残した
トトはドロップの死で自分の無力さをもっとより痛感したことで、きっと宝物を見つけて守るために医者になる努力をするのでしょう
ロウマがどうするかはわからないけど、でも、きっと、顔も知らない誰かのために何かを残すように歩いていくんだろうなと思います
ちょうど、ふたりが取りたくて切れてしまった電話のように、誰かが誰かにメッセージを送っていて、彼らもあとに続く誰かのために道を照らすんだろうなと
すべての構成がうつくしい……

あまりにもすべてが刺さりすぎてどう言えばいいのかわからないですが、宝物みたいな作品になりました
また見に行きます



以下一回目を見たあと思い返していて気づいたことやじわじわきたことなど


ドロップ、ロウマとトトにとって、まるで青春を連れてきて連れ去っていくような男の子だな……
本当に流星みたいな男の子なんだよな
ドロップの訪れによってロウマとトトの「ドングリーズ」は綻びが生まれて、ドロップがいなくなることでロウマとトトは「ドングリーズ」を卒業する、別の形へ生まれ変わる
まるで羽化するみたいに
ドロップにとっては二人との出会いが羽化だったのでしょうが……
数年たったら本当にいたかわからなくなってくるような、ロウマとトトにとってのオムファタル、ティンカーベルのような存在
よくよく考えてみればデザインの時点でドロップはロウマとトトとは違う変わった服を着せられてるのでやっぱ意識してオムファタル的な立場になってんだわ
ドロップがあまりにも理想の男の子過ぎて概念化がとまらんよ あの子だって等身大の男の子なのに

最初の方で東京ばな奈?の包み紙を食べ終わったあとおもむろに引き出しにいれるドロップに、トトが「ごみためんなよ」みたいなことを言って「違うよ、宝物だよ」とドロップが返しており、終盤でドロップが書いたコーラのラベルの裏のメッセージや宝の地図のコーラのボトルを見たロウマとトトはきっとそれらを捨てられないだろうなと思うと、その辺りも伏線に見えてきてすごくいいなと思う
ドロップは甘いものが好きなのかな

ドロップがいなくなったことでロウマがやけを起こして秘密基地をめちゃくちゃにしてしまったので後始末としてロウマとトトふたりでその残骸を燃やす、つまりドロップがいなくなったことでドングリーズ解散、ということで、やっぱりもうとうのむかしにドロップはドングリーズの仲間になっていたんだなぁ!!
一度ドロップを迎え入れてしまったことで、ドロップがいないドングリーズはあり得なくなってしまったのかもしれない
だからもうロウマとトトふたりだけではドングリーズではいられない
新しいかたちになるしかない
ドロップ……

そうか、ロウマがやけになって秘密基地を壊してしまったあとに秘密基地を燃やすのは、葬式の比喩か……
ドロップの火葬なのかあれは
ふたりだけの葬式
ふたりだけしか知らない勇敢な部分を持つ男の子
ロウマが時計を割るのは「止まった時間を動き出させる」比喩なのか
火葬であると同時に、やっぱり「子供時代への卒業」なんだな
宝物を守れない、ついこないだまであんなに元気に笑っていたともだちひとり守れない、「無力である」ことを痛感して少年たちは大人になる
ドロップが死ぬことは哀しいことではなく、人が死ぬのは当たり前のこと
ドロップはきっと、自分の病気や死期を、できたばかりの心からのともだちに、深刻に受け取って欲しくなかったし、じめじめしてほしくなかった
でも哀しいものは哀しいよね
その哀しみはロウマとトト、ひとりひとりのもの
切ないね

ドングリーズのタイトル、「ドングリーズというグループへのさよなら、子供である自分から殻を破って先へ進もう」という意味と、「don't gleesへグッバイ、大喜びしてはならないと自分達で自分達を縛っていたものへさよならをする」という意味でのダブルミーニングがあまりにも美しくてのけぞってしまう

赤い電話ボックスを探していたドロップが、チボリがロウマのカメラで撮った、青い花の写真に写ったてんとう虫が飛び立つ赤いラインを指して「チボリちゃんは赤を撮ったんじゃない?」って言うの、めちゃくちゃいいな……

ロウマが持ってきた缶詰を三人でめちゃくちゃめちゃくちゃこすって開けるとこほんと好き
ギャグのシーンなんだけどだからこそ顔がマジなんだよな~たぶん作中でいちばんいろんな顔してる
あと開いた!てなって三人で抱き合って喜ぶとこも好きだし、そのあとちゃんと(ちゃんと?)木の棒で食ってんの好き
缶切り持ってこないバカが箸とかスプーンとか持ってきてるわけがないんだよな~~~バカだから……
絶対トトお腹壊したでしょ
かわい~~~ね……

トトがドロップに内心を吐露するシーンもほんとに好き……
トトの泣き顔が全然きれいじゃなくてきったなくてみっともなくてだからこそ切実なのが本当にいい
トトがいちばんカッコつけだと思うから(常識とかを考えてしまう大人な面がいちばん大きいので)、そこからだんだんトトの「優等生」が剥がれていくのがとてもいい
焚き火に参考書放り込んで言うのが「火、消えかけてたから」なのも照れ隠しで男の子で本当によい
真面目でいようとするトトの大人びた背伸び感も年頃というか男の子というか等身大感があって本当にいいんだよな……

ドングリーズ、なんかのレビューで「冒険にたつ理由が山火事の原因の犯人じゃないって証明するためなのがマイナスでワクワクしないのがよくない」っていうの見たけど、バカヤローそこがいいんじゃねぇか!そういう引け目で冒険に出掛けるのにうっかりワクワクしちゃうのが後ろめたくて後ろ暗くていいんじゃねぇか!と思う

ロウマが夢で崖みたいなところに立って、その上の崖に立ちすくんでいるドロップを見上げるシーン、「ここだよ!ここにいるよ!」でもあるし、だんだん回りの崖が少なくなって塔のようになっていくのも、「井の中の蛙大海を知らずされど空の深さを知る(これから)」を示してるんだろうなと思うとぐっとくる
ロウマとトトより世界の広さを知っているドロップが、世界を知らずに井の中の蛙であったロウマとトトに出会って宝物を見つけるのマジで最高だな

いやでもドングリーズ、テレビアニメシリーズにしちゃったらこんなに勢いは出なかったと思うな……
テレビシリーズだとなんか間空いちゃうからそのときのテンションによってもどうしても没入感に差が出てしまうんだよな
劇場だといっぺんに見ていっぺんにワーーーとできるからいい

ドングリーズ、確かに適当に検索して映画サイトを見てみると「突飛すぎる」とか「やりたいことはわかるけど描写が足りない」とかはちらほら見るな
確かにちょっとしゃべらせすぎなところはあったと思う
でも軽快なぽんぽんとした口喧嘩とか軽口を叩くような感じはとてもよかったですよ

天気の子見たときも思ったんですが「お前は間違ってないから大丈夫」とでかめの作品から言われたような気になるととてもうれしくなりますね

適当に検索して見たドングリーズの映画レビューに「これは詩だ」ってあって「詩の何が悪いんじゃい!!」と時差でなっている
ドングリーズは確かに詩に近い作品だと思う
でもそれがいいんだよ
わたしはそれが好きだし、詩の何が悪いんだと思うよ
たぶん「詩みたいな」って感想のひとは「青くせーポエムみたいな」って意味で言ってたんだと思う
実際陰キャの青くせーポエムみたいな内容なんだけど、でもわたしはそこが好きなんだよな

ドングリーズ、男の子の話なんだけど、なんかどこかホモソーシャルじゃなく透明なのがいいなと思う
いや、少なくともロウマとトトを取り巻く世界はホモソーシャルのいやなところが出てんだけど……でもふたりの関係はホモソーシャルじゃない気がするしドロップはなおさら
ブロマンスでもないんですよね
名前がつけられない
強いて言えば「ドングリーズ」なんですよ
何て言えばいいですかね
もうこの作品に敬意を表してこういう男の子たちの透明でかわいらしい関係を「ドングリーズ」と呼ぶでいい気がする
ホモソーシャルの「俺の方が上だぞ」みたいなのがないんですよねロウマとトト
あとからきたドロップは不思議な子だし、マウントの取り合いがない
でもお互いに「お前にこんな顔は見せられない」というプライドのようなものはある……
迫害されて疎外感を感じている隠キャの男の子たちだからなのかな
力ではなく内面を、認めるではなく信じている感じというか
「お前のこと信じてる(から結果を出せよ)」じゃなくて、「お前のこと信じてる(からそのままでいいよ)」という感じがする
透明……
ロウマとトト、クラスのカースト戦争という闘いに破れた男の子同士だから、お互いといるときは変にがんばらなくていいというのはあるのかもしれない
ロウマとトトはお互いが頑張らなくなっても「そっか、疲れたよな、まぁいんじゃね?」って言いそう
実際トトがサボったことについてもドロップが「いいの?」とは聞いてもロウマはなんも言わんかったし

まぁ確かにドングリーズによりもいを期待したら「なにこれ」になるわな
尺もキャラも話も違うんだからそりゃそうだよ
同じなのはメインスタッフだけなんだから
正直興業収入的にはドングリーズつくるよりよりもい総集編つくって前後編とか三本だてとかで劇場でやった方がよかったと思うので、ドングリーズ新しくつくる!ってちゃんとつくってくれてマジでありがてぇなと思っている
売れるかわかんない博打で新しいものつくるより売れたものを再編集した方が安全なのはそれはそうなんですよ
でもそれをしなかったの本当にありがたい

全然ネタバレじゃないとこをいうとトトがおにぎりおとしたので「おとした……」って言うとこの声のトーンめっちゃすき
トトが梶裕貴なのまじでいい
今までだったらロウマが梶裕貴だったと思うんだけど、そうじゃなくてトトがなんですよ

おれが隠キャだからドングリーズが刺さったならもう一生隠キャでいい……
誰にでも青春をする権利がある

ドングリーズ、歩いていてふと知り合いを見かけたら慌ててつい隠れてしまうような子達の話だし、だからいいんだよな……

確かによりもいに比べると、ドングリーズはセリフが多めで説明的なところは否めない、尺的にもしょうがない
でも状況の説明じゃなく、感情の説明なんですよね
感情の作品なんですよ よりもいもそうだけど、よりもいは時間をかけたからこその感情で、ドングリーズは勢いの感情だった

仕返しが誰も傷つけない方法だったのがよかった

三人で踊るシーンは確かに三人ともカメラ目線なのは違和感があった

ドロップにとってキックスケーターも見ていてほしい友達なんだよなぁ
ドロップの孤独を思うと胸が苦しくなる

ドングリーズ、「世界は思っているより広くて狭い」なんだよな……
世界は広くて広大で、君たちが駆け回るのに不自由しないくらい大きいが、同じくらい、手を伸ばして届かないところはないくらいには世界は狭い、そして信じられないくらい世界は美しい、だから飛び出せ、殻を破れ、なんだよな……

・「ドン・グリーズ」であって「どんぐりーズ」ではない、とトトは言うが、それをトトから知らされる前、「どんぐりーズ」だと思っていたロウマ(と短い間だけれどドロップ)の時間も、それは決して「間違い」ではない
「どんぐりの背比べ」だと思っていたロウマの時間も、けっしてむだではない
ここでも「寄り道してもいい、遠回りしてもいい、サボったり余計なことをしても、その結果得るものが必ずある」が結果的に描かれている
実際、トトに「どんぐりじゃねーからな」と言われるまでの三人、水に落ちるシーンがやたらと多いのである
「どんぐりころころどんぶりこ おいけにはまってさぁたいへん」なのである
よく覚えていないので二度目で確認するが、トトから「どんぐりじゃねーからな」と知らされたあとは、三人が水に落ちるシーンはほとんどなかったのでは
そして、71号線の行き止まり、そこは水没した道路であった
水没した道路へ三人は足を踏み入れることができない
「どんぐりころころどんぶりこ」ができないのである
一度、トトから「どんぐりじゃねーからな」と言われた瞬間に彼らは「どんぐりーズ」であることを卒業し、「ドン・グリーズ」になるわけだが、ここで彼らは二度目の「どんぐりーズ」を卒業する羽目になる
この作品において、水というのは少年であること、子供であることの象徴なのかもしれない
ロウマが水辺で顔を洗うドロップに見蕩れるシーンも、つまりどうしようもないほど「永遠に子供であることがわかっているドロップ」に理由もわからず見蕩れる、ということなのではないだろうか

・物語の文脈として必要だろうと思われる、例えばロウマとドロップの出会いなどをカットし、一見馬鹿馬鹿しくて意味がないと思えるような、「今までロウマとトトを迫害してきた奴らへ仕返しをするために女装をし、結果成功し(?)笑い転げる」「三人で歌を歌って踊る」「缶切りがなく開かない缶をこすって開ける」というシーンをあえてカットしないのは、そこに輝かしい少年たちの「瞬間」、「今」があるからで、それはいつか「想い出」になるものだからである
物語として大切な文脈よりもそれを描くことを優先した、それは、「輝かしい瞬間は通りすぎてしまう、けれどそれはなかったことにはならない」という作品が伝えたいであろうメッセージにも該当する
また、「女装をし今までロウマとトトを迫害してきた奴らへ仕返しをする」「缶切りがなく開かない缶をこすって開ける」というシーンは、三人にとっての「三人での」成功体験である
成功体験を積み重ねその瞬間を共有することで、重ねていうがそれは輝かしいプラスの想い出になり、「僕らは枠を越えることができる」という自信を彼らに持たせる効果に繋がっている
さらにいえば「女装をし今までロウマとトトを迫害してきた奴らへ仕返しをする」のは、元はといえばドロップが言い出したことなのである
ドロップはふたりが迫害されてきた時間の積み重ねを知らない、ふたりがどういう思いをしてきたのかを目撃はしていない、それでもふたりの気持ちを汲み上げるようにして「仕返ししてやろうよ!」と言う
これはドロップの思慮深さと思いやり、やさしさの賜物ではないだろうか
そもそも作中のなにもかもを「やろうよ!」と最初に言い出すのはドロップなのである

・ロウマとトトだけスマホを持っていて、ドロップはスマホを持っていない、ロウマとトトはドロップの連絡先を知らない?
ドロップが入院するのは町の大きな病院、医者であるトトの父を通してしかドロップの現状をロウマとトトは知ることができない(ロウマはトトの父の連絡先も知るわけがないので、ロウマはドロップの現状をトトを通じてしか知ることができない)
これは無力さの演出でもあり、大人になることへの演出でもあるのかも

・存在する、生きるということは、世界を汚すということである
よりもいでもまっさらな白い雪に足跡をつけることの喜びを語るシーンがあったけれど、それと同じなのである
生きるということは足跡をつけるということで、足跡をつけるということは世界を汚すということ、世界を汚すということは世界を彩るという意味でもある

ドングリーズ、三回卒業があるんだな
一度目はトトに「どんぐりじゃねーからな」と言われた瞬間、二度目は71号線で水没した道路に行き当たった瞬間、そして三度目は、ドロップがいなくなったことを知ったロウマが秘密基地をめちゃくちゃにしてしまったので後始末としてロウマとトトふたりで「ドングリーズ」の看板を燃やすシーン

少年たち、徐々に大人になっていく……

俺たちは異なる人生を歩んでいる

こんなにも一緒なのに、僕たちは一緒ではない

ああぁドングリーズ、「僕たちはチームであることを卒業して個人になる」じゃん!!
その上で、ロウマとトトは「ふたりで」アイスランドに行くことを選択してるんじゃん……
だってもうあの段階ではふたりは「ドングリーズ」ではないわけじゃん……

グッバイ、ドン・グリーズ!、マジですべてを肯定してくれる
わたしはきっとこのような作品を待っていたのだ
君を待っていた

「僕たちは別々の生き物で、別々の人間である」がめちゃくちゃ好きなんですよ

考えれば考えるほど好きな要素が増えていくから苦しくて楽しいよ

ロウマとトト、「ドングリーズ」という「ひとつ」から、「僕とお前」という「ふたり」になったんだよな……
皮肉なことに、ドングリーズじゃなくなったからこそ、ふたりはお互いのことを本当に見つめられるようになる
ドロップは元々突然現れた異分子なので「ドロップ」なのだが……(ここでもドロップの孤独だけが如実でつらい)

動くことは生きること、動くことは世界が広がること

わたしは少し前まで「空気のような存在になりたい」「わたしという存在が生きていて何かに介することでその何かや誰かを変えてしまうことが怖い」と思っていて、「自分という存在が生きていることで、ただそれだけで誰かの何かに介入し誰かのなにかを変えてしまう」ということが、あまりにもすごくて素晴らしいことであると理解した今でも、それは素晴らしいからこそ重く怖いことだと思っているのですが、ドングリーズ、「僕たちは別々の人間である」「でも、僕たちは関係し、交わり、介入することで、お互いのなにかを無意識に変えている、変えてしまう」ということをかなり透明な位置で描いているっぽく(マジで気づかんかったフォロワーありがとう)、そして「それは怖いことだが、素晴らしいことでもある」「僕たちは“僕たち”から、“僕とお前”になることで、お互いを見つめることができる」「“ドングリーズ”というひとつ、チームでいるときには、目の前の“お前”を見ることができなかった」「でも今、それぞれの人生と自意識と自我、哲学を持ったひとりの人間として、お互いに向き合うことができて、その違いを知り、それを喜ぶことができる、それをお互いの豊かさにできる」ということのようで、なんというか、それだけで正直でかいテーマにできると思うのだが、メインテーマの「僕らは殻を破る」「瞬間はいとおしく、それが過ぎ去ってもいとおしい想い出になる」「現実は簡単に変わってしまう」みたいなところに寄り添うように透明に描かれていることがあまりにもすごくて「なん なん 何!?」となっています
なんでこんなにグッバイ、ドン・グリーズ!という作品、わたしのツボしかついてこないんですか???こわい

ドングリーズ、男の子の物語なんだけど、「高め合う」じゃなくて「互いに豊かになる」なんだよな……

「世界」というのは同時に「お前(君)」なんですよね
世界を知れば知るほど隣にいるお前を知る
「逃げたくなるほどなるほどに、世界はそっと近づいていく」し、それは同じくらい、「お前」と近づく、「お前」の心を知るということなんですよね
「お前を知る」ということは、「自分は自分というひとりであり、お前はお前というひとりである」ということを認識しなければできないことで、「お前を知れば知るほど」、「自分とお前は別々の生き物であり、別々の人間である」ということを思い知らされるということでもある

ドングリーズ、「火」は波乱をつれてくるもので(花火、焚き火、燃やした看板)、「水」は自分を知るものなのかもしれない
でも赤は「見つけられるもの」の色なんだよな(赤いパーカーを着たロウマ、てんとう虫のライン、赤い電話ボックス)

ドングリーズ、よりもいみたいな「ここではないどこか」ではなく、「俺はここへ行く!!」なんだよな

もうわたしはわからないまま曖昧にはしたくないので、ドングリーズのメタファーも理解したらちゃんと記録するわ
これは「これを受け取ったぞ」という未来の自分への足跡でもあるのだから

足跡を残せ
いつかここへ来る誰かのために
灯台を立てろ

チボリはヒロインではなく、「空気ヒロイン」と言われるとヒロイン的な立場としては確かにそうなんだけど、「空気」ではなく「ただかつてそこにいて、今違う場所で生きている女の子」なんだよな
世界の広さと狭さを少年たちが知るのに「違う場所で生きる、かつて同じ場所にいた女の子」はある種効果的で、そして彼女はロウマにとって同じものを共有した想い出があるので大切な人なのである
ロウマの未来にとってもきっと大切な人になる
そしてドングリーズの本当の意味での概念的ヒロインはドロップなのである
ドロップなのである……
でもドロップは男の子だからね!!!!!

チボリがいなかったらロウマとトトの電話は赤い電話ボックスに繋がっていないんだな……
シナリオ上の役割っちゃ役割なんだけど、ロウマの過去でちゃんと「自分を持った等身大の女の子」であることが描かれているので、役割的な空気にはならない
「存在している」
チボリ、ロウマの過去と未来に密接に関係している女の子だ……

ドングリーズ、よくよく考えてみなくてもボーイ・ミーツ・ボーイなんだなぁ!?!?
いや あの 好きです
好きにきまっとるやんけ

ドングリーズ、本当に本当にしみじみとここが好きだなと思うとこ、ドロップがぜっんぜん「可哀想な男の子」じゃないとこ
ドロップは全然可哀想なんかじゃないんですよ
人が死ぬことは哀しいことじゃない、ただただ当たり前のことなんですよ
ドロップにとっては、あのときがそうだっただけ
哀しいのは、もう会えなくなること、もう一緒にいられなくなることなんですよ
哀しいという感情はロウマとトトのもの
ドロップは、どうしても手に入れたかった宝物をちゃんと手に入れて、全身で世界を感じて、全身で精一杯生きて、満足していなくなったのだから
そりゃ、せっかく心から笑い合える友達ができたのだし、もっと生きていたいと思っていたことでしょうが、それでも、「世界が閉じるときに後悔はしたくない」という言葉のとおり、最後の心残りであった「宝物を見つけること」「最後に友達と何かすること」「友達に自分の最後の勇姿を見届けてもらうこと」をきちんと成し遂げた
ドロップは本当にかっこいい男の子なんだ
どんな感想でも受け入れる気持ちでいますが(それが見た人だけのドングリーズなので)、ドロップが可哀想という意見があったならばそれだけは心から否定できる
あの子は満足して逝ったんです
きちんと自分の信念を突き通して、哲学を全うして生きたのです
フォロワーの感想での「ドロップが死に目を見せてくれるわけがねぇよなぁ!」というのは本当にそうで笑っちゃった
弱っている姿を友達に見せたくなんかないんですよね、トトだけじゃない、男の子だから……
ドロップという男の子が本当に好きだなぁと思う

ドロップは、世界の広さをロウマとトトふたりに見せたんですよ
滝がどんなに大きいか、どんなに美しいのか、高いところから見下ろしたときにどんな気持ちになるのか、赤い電話ボックスが本当にあったことも、ドロップはロウマとトトに教えたんですよ
ちゃんと自分の生きた証と軌跡を残した
それがどんなに小さいものであっても、人から見たらちっぽけなものであっても、この世でふたりしか知らなくても、それでも、それはキラキラ輝く「宝物」なんだ
ドロップは本当に美しくかっこいい生き様を残してくれた
わたしはあの子の誇り高さがあまりにも好きです

ドングリーズ、ビジュアルガイド見てびびったとこ
見ただけでは気づいていなかったのだが、トトがロウマに電話を差し出して言うやりとりをドロップが受け取っているのは見ていればわかるのだけれど、そのトトのセリフがそのままドロップの「最後の信念」になっており、そのトトがロウマに電話を差し出して言うシーンのコンテのセリフを見て「ウ、ウワーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」となった
マジで一度見ただけでは気づかなくてビジュアルガイド見てびびったので本当にコンテを全部読みてぇ
文字情報じゃないと噛み締められないものがある

あとラストロウマとトトがアイスランドでふたりで乗っているキックスケーターがドロップのものらしくて、「本当に三人でアイスランドに行ったんじゃん!!!!!!!!!!!!!!!」となった

「一人で立ち向かおうとするからビビるんだ
お前の15歳、最後の勇姿を見せつけろ
ここでしっかり見届けてやる
信じて進めば、欲しいものは手に入れられるはずなんだ!」

「15歳最後の勇姿を見届けてくれる友だち💧」

何気なく発した言葉が誰かの信念になったりするの、あまりにも重くてあまりにも美しくてどうしたらいいかわからない
我々が何気なく普段発している言葉も誰かの背中を押したり同じくらい傷つけているかもしれない
言葉は強い
人間を生かしも殺しもする

もう作中で「ここにいるよ!」「届いたよ!」をたくさんキャラクターたちがやっているんだが、これが上映されいろんな人に見られることで、それがネットなどで声に出されることで、制作陣にまた「ここにいるよ!」「届いたよ!」が伝わったら本当に想いの連鎖で輪廻って感じですごくいいよね
そういう輪にできる作品になったらいいよね


以下二回目感想

二回目!よかった~
また泣けてきてしまった
ドロップを思うと切ない

三人で山火事の話をしてるとき、トトお腹痛がってるんだよな……お腹弱いね

二回目だとドロップとトトが喧嘩してトトの気持ちを聞いて慰めるまでのトトの焦りがすごく伝わってきたし、「ドン・グリーズ」というチームに対する「子供っぽくて恥ずかしい、いたたまれない」みたいな感情が如実に表情に出てるな……と思う

ドロップの気持ちを思うと切ないけど、もうあの子は覚悟を決めている子なので、そんなに二回目で印象は変わらなかったな
芯がある子なんだよな……

「どんぐりころころどんぐりこ」じゃなくて「どんぐりころころどんぶりこ」 だった
間違いだらけだ
でもやっぱその話をする前に滝に落ちるので、三人がその時点では「どんぐりーズ」であることの示唆だと思うんだよな~

ドロップだけでなく、チボリも、詞のようなセリフがもう少し話し言葉になってたら受け入れられやすかったのかな

山んなかに来たときのトトのカバンのなか、参考書だけじゃなくトイレットペーパーも入ってる!

ロウマとトトがアイスランドに来たときのキックスケーターがドロップのものなのだと思うと本当に三人で来たんだという感じでうれしいね……

「15歳最後の勇姿を見届ける」という言葉、三回出てくるんだな
一回目はトト、二回目はロウマ、三回目はドロップの書き残し

三人で競争するところ、ドロップの背中をロウマが掴めないところでもドロップの未来を示唆している……

71号線の看板があった気がしてたけどなかった 一回目は幻覚を見たのかもしれない

この映画、そこかしこに伏線やメタファーが散りばめられていて本当にすごい
他の方の感想で見たんだけど、ロウマが秘密基地を壊すシーンで時計を壊すの、「止まっていた時間が動き出す」演出で「少年時代の終わり」なんだな……
そしてやはり秘密基地を燃すのは同じく「ドン・グリーズからの卒業」であり「ロウマとトトふたりだけのドロップの火葬」なんだ

エンディングでドロップが右から来るところで泣いてしまう
一回目も泣いた
曲がまたやさしいんだわ……
ロウマとトト、ふたりは永遠にドロップに勝つことはできないのだ……
作中でもそうだし、EDでもロウマとトトはドロップに追い付けない
それでもEDでは左から右に飛行機が飛んでいくからよ……最高だぜ……


以下二回目見て気づいたことなど

トトに「ロウマは遠くには行かねぇよ、東京の高校一緒に受けようって言ったときもそうだった」と言われたロウマが、トトと一緒とはいえ世界へ飛び出し、アイスランドまでいき、「なんだ、近いじゃないか」みたいなことを思うまでの話なんだなこれ
だからロウマ視点でロウマの一人称なんだ……

入場特典の小説を読みました
そっかぁ、プールにも一緒に行ったんだ
よかったねぇ

しかしドロップ、ふたりにたくさんの夢の種を撒いていったなぁ!
きっとトトは小児科医になるんじゃないかな
ドロップみたいな子をたくさん助けてあげてよ
ふわふわしていたロウマもちゃんと夢が見つかって進もうとしていてえらいな
その手でたくさんの種を撒いて、野菜を育てて、未来へ繋げていって欲しい
やっぱり、わだちというか、足跡を残すことなんだよな……
生きるということは、灯台をたてるということ
未来へ繋ぎ、いつかそこへ来る人のためになにかを残すこと
ドロップはたくさんのことをロウマとトトに教えてくれて、そしてこれからもふたりにたくさんのことを思い出させてくれるのだろう
いなくなっても、いなくならない
ちゃんとふたりのなかで生きているね
ドロップがいた証を、ふたりが証明してくれている
三人はいつまでも親友だね

「一生お前に勝てねぇよ」が好き

ドングリーズ、本当に計算されて演出がなされた映画だと思うし同じくらい感情で押しきる映画でもある

トト、自分がお腹が弱いことを悪いことだとは思っていないっぽく、自分のあだ名がTOTOから来ていることも普通に受け入れており、ラインのアイコンにしてる辺りでも気に入ってるんだろうなと思われるのだが、なんというか、「弱さ」を「弱さ」だと思わないスタイルというか、弱さをそのまま受け入れてある種のアイデンティティにしてしまうというか、「それも自分だ」とちゃんとなにもてらわず自然に言えることは、「今」の男の子の在り方として(男の子だけではないかもしれないが)強いし、そうであれるといいねという時代になっている気がするな

ビジュアルガイドに書いてあったんだけど、トトのあの子供用の自転車、お姉ちゃんとか家の自転車使っちゃうと困るだろうな、って気を遣ってあれを選んで乗ってきたらしいんだよね……
気遣いのできるいい男なのだ。って書いてあったけど本当にそうなんだよね
誰よりもいろんなことを気にしちゃうから色々考えてひとりで背負ってしまうタイプなのかな

ぜんぜん関係ないけどクマに会ったときに三人揃って威嚇のポーズするの、ビジュアルガイドに「「熊と遭遇したときは大きな動物のフリをする」というふわっとした知識から咄嗟に出たポーズ。」って書いてあってあまりにもかわいい
裏表紙のポイント絵にも使われててあまりにもかわいい
ここでは三人の思考や視点が揃ったのね……

わたしは自分がドングリーズを受け取れたことがとてもうれしいんですよね
「見つけてくれてありがとう」と「そこにいたんだね」が同時にやってきた感じがしてて
自分がドングリーズという作品を受け取れる土壌にあったこと、ドングリーズという作品に自分の大切にしているものを見つけられたことがとてもうれしいんですよね
でもわたしの力だけでは気づけなかったメッセージも多くありくやしい
自力で見つけたかったな

最後の電話、しらないひとからのものだったら未来へ繋ぐ感じでいいなと思っていたのだが、でもロウマとトトのふたりがアイスランドに来てくれたこととか自分に影響うけてヘアドネーションしてくれたこととか自分のキックスケーターも連れてってくれたこととかがうれしくなって、ついドロップが“向こう側”からかけてきちゃったでもかわいいなぁ!と思った

それはそれとしてロウマとトトのヘアドネーション、これも、ドロップに影響うけてのドロップへのメッセージでもありながら、これからその髪を受けとる知らない人たちへのバトン、「繋いでいくこと」なんだなと気づいてどひゃ~となってしまった
すべてがうつくしすぎる……


たぶんまた見にいくので追記します