白昼夢

いつも眠いひとが色々いうブログ

喜多見柚というアイドルについての記述

喜多見柚に対する感情は、一言では言い表せない。
これは、恐らく最後のラブレターであり、懺悔である。
とても長くなりそうなので、こういったものを読みたくない方はすぐにブラウザバックをお願い致します。
なお、この文章に対する批判などは一切受け付けませんのでよろしくお願いします。



私は2013年からアイドルマスターシンデレラガールズをプレイしている。(ちょうど、「SR+[オオカミガール]高槻やよい」がバレンタインキャンペーン第2弾の特典として登場した頃)

当初は普通に遊んでいた。前川みく高森藍子輿水幸子などをメインにプロデュースしていた気がする。
柚のことは、「なんか前髪ぱっつんのかわいい子がいるな~」くらいに思っていた。

転機は確か、お転婆☆ひな娘かハロウィンヴァンパイアだった。
何でそれを見つけたのかは忘れてしまった。
けれど、誰から見ても美少女、というわけではないのに、絶妙に愛嬌のある黄金比率な顔立ちのかわいさや、そのリアルな性格も合間って、私は彼女に夢中になった。


楽しいことが大好きで、好奇心が強いのに、どこか臆病で、自分よりもすごい人がたくさんいることを知っているから、後込みして、自分よりも強い情熱を持った他の人に譲ってしまう。
自分が決して一番にはなれないことを、知っている。その程度の聡明さがちゃんとある。
自分の身分相応さを誰よりも知っていて、だからこそ、自分のできることで、自分に相応なレベルで、楽しい物事を追い求める。
彼女は、一番になれなくてもいい、と言う。
なんて生っぽいんだ、と思った。
その等身大さの、そのリアリティの、その掴みきれない曖昧な輪郭が、私にはあまりにも、自分のことのように思えて仕方なかった。
日に日に、見れば見るほど、柚のことを大好きになった。

当時、彼女の身長体重などのプロフィールがぶっちぎりでアイドルマスターシリーズ平均値ど真ん中であったこと、カードの出番や機会に恵まれないことが多い、絶妙にタイミングが悪いなどといった不憫さも、さらに彼女を好きになる一因となった。

細かく思い出せないので割愛するが、Nからホップステップサマー、桃園花娘あたりまでは、本当に柚が好きだった。



デレステリリース時に喜多見柚は実装されておらず、今か今かと心待ちにし、喜多見柚のNが実装された日はバスのなかで本当に歓喜したことを覚えている。

モバマスの方で柚の新規カードが出れば出るほど、瞳が大きくなっていわゆる誰から見ても美少女のような顔立ちになっていっていくことが不満だったため、デレステの喜多見柚モデルは理想を射抜いていた。

瞳がまんまるで大きすぎず、顔面の中心に鼻がちょんとある、「誰から見ても美少女とは言えないが普通にかわいい女の子」の顔立ちに、平均値と言われても納得する、バランスのいいスタイル。
うれしかった。本当にかわいい。
ひたすらスクショした。柚がいれば楽しかった。
デレステのメモリアルコミュも(少なくとも4までは)、私が“視ていた”通りの柚で、本当に信用に足ると思った。
ずっと、このまま、少女のままのアイドルとして、近くも遠くもない触れられそうな場所に、ふっと立ってくれているのだと、心からそう信じていた。



違和感はあった。
前述した通り、モバマスで新規カードが出れば出るほど、初期と顔が違ってきていること、また、ひらめき☆アンサーあたりから、やたら“かるい”イメージのセリフばかりになってきていたことも。
けれど、デレステの柚コミュが個人的にパーフェクトだったことや、恒常SSRも衣装はともかく(モバのフレンズホリデーにて、「お、きた!柚にもフリフリの!これは美少女のフリしちゃってもいいってことカナ?よし、引き受けようっ。前からやってみたかったんだー。こうかな?それとも…こう?へへっ、イイかも」、「柚さ、昔から、目立ちたがる子じゃなかったんだ。でも、Pサンが望むなら、フリフリにも慣れないと。ちょっとずつアイドルっ」というセリフから感じる、その絶妙な「かわいい女の子」への居心地の悪さのようなものが、“少女のままアイドルとしてそこにいる喜多見柚”としてとてつもなくしっくり来たため、喜多見柚には最初からかわいいスカートドレスの衣装を着せてほしかった)(この辺りは限定SSRにて回収されたものの、やはり最初からそうしてほしかったという気持ちは拭えない)、コミュはパーフェクトだったこと、総選挙のコメントが第三回はとてもらしかったのに第四回になって「らしくないな?」と思ったところに第五回の総選挙のコメントにらしさが戻ってきていたことを踏まえて、私は思い込もうとしていた。
変わらないのだと。柚だけは、そのままでいてくれるのだと。


けれど、第六回の総選挙コメで、違和感を感じていた軽薄さがいっぺんに倍増しになった。

それでも、柚に入れた。


総選挙の後のことはもうおぼろげにしか覚えていないけれど、まだ、あの子が5位になったと知ったときは、うれしかった気がする。
5年も担当してきた、隣で見てきた女の子が、CDデビューできることは、純粋にうれしかったのだ。

けれど、彼女についた声は、私の“聞いていた”喜多見柚の声とは、全く違っていた。


あのこに声がついた瞬間のことはよく覚えている。
ボイスマークを押して、セリフを、声を聞いた瞬間、「この子は誰だ?」と思ったのだ。
この子は、本当に、今まで向き合ってきた、今まで5年も隣で共に歩いてきた女の子なのか?
違和感しかなかった。
柚ではない、でも、合わない、でもなく、「この子は誰だ?」としか思えなかった。

ボイスマークを見るのもいやになった。


柚のSSRが出て、声がついて、限定SSRを引いた後、5年ほどお世話になったモバの嫁プロを私はひっそりと退社し、別の放置嫁プロに移った。
もう、喜多見柚の声や、今後の活躍を、喜んだり、彼女のために競ったりする気にはなれなかったからだ。
喜んでおられる他のPさんに対して、喜べない私は、存在するだけで水を差してしまっているような気がした。
それでも、他の嫁プロに移ってしまうこと、アイドルマスターシンデレラガールズを完全に引退することができないことが、私のだらしなさであり、弱さなのだろう。




少年ハリウッドという、アイドルの概念を私に教えてくれたアニメのなかに、こんなセリフがある。


『アイドルってね、あるものもないものも、すべてを求められてしまう存在なんですよ。
恋人になってほしい 家族になってほしい 慰めてほしい 元気にしてほしい かっこよくあってほしい 可愛くあってほしい 素を見せてほしい 見せないでほしい そばにいてほしい 遠い存在であってほしい 自分だけのもので 皆のもの
もう、すべてのつじつまが合わなくなってくるほど 求められて求められて、求められる存在なんです。
そのすべてに答える方法はただひとつ 全部を出すことです』


まさにこのセリフの通り、私にとって喜多見柚は、担当であると同時に、ファンであり、憧れであり、親友のようであり、姉妹のようであり、恋人のようであり、写し鏡のようであり、あまりにも理想の少女だった。
はたから見ればつじつまが合わないと思われてしまうのだろうと予想がつくほど、私は彼女にすべてを見い出していた。
アイドルは、偶像は神さまだとも言うけれど、間違いなく、あのこは私の神さまだった。
みんなのものでありながら、誰のものでもなく、そして、誰よりも私のそばにいてくれる、あまりにも近く、けれど永遠に手の届かない、とてもうつくしい、不完全だからこそ完全な、少女のかたちをした偶像だった。

アイドルだった。

私にとって、他の誰よりも、あまりにも彼女はアイドルだったのだ。
そして、いつしか、私のなかで、彼女は完全に概念にすらなってしまっていた。
概念の死は、永遠の始まりだろうか。
けれど、彼女の形をした、彼女だとは思えないものが、まだそこにいるのだ。
もうどうすればいいのかわからなかった。

喜多見柚ちゃんは、私にとって、すべてを見せてくれる、夢のような女の子だった(「だった」、と過去形で言わなければならないことが、未だに悲しくて仕方ない)。
あまりにもすべてを持っていて、あまりにもすべてが透明だった。
等身大でいながら、私がなりたかった姿を、全部叶えてくれたようだった。


私も、柚みたいになりたかった。
「普通の子」を自称し、伸びるスピードもゆっくりで、ちょっと臆病で、自信がなくて、誰かよりも後ろに下がりがちで、自分が前に出るよりも誰かのフォローが得意で、照れ屋さんで、ちょっぴりめんどくさがりで、ずるいところもあって、けれどもそんな下手すればネガティブなところにも矛盾することなく、いつも他人の邪魔にならない程度にマイペースでいて、楽しいことが大好きで、いつも楽しいことを探そうと目をきらきらさせて動き、自分だけでなく周りも楽しくさせるような、そんな、あなたみたいになりたかった。


あなたは、私の憧れだった。
あなたならばこんなときどうするだろう、どう思うだろうと、何度考えたか知れない。


跳ねすぎず暗すぎない、お茶目で無邪気でちょっぴり遠慮がちな喋り方をして、その辺にいそうな、しかしとてつもなく唯一無二のやわらかい雰囲気を纏い、生っぽくコケティッシュに笑っている、“少女”の柚が大好きだった。


その生っぽさを、彼女は失くしてしまったように思う。
不完全だからこそ完全だったのに、完全な、誰から見ても、ただの「アイドル」になってしまった。
私が見ていた「少女」の柚は、もうそこにはいなかった。


私は、喜多見柚は、誰にでもなれる可能性があり、そして、誰にでも、喜多見柚のようになる可能性があると思っていた。
そのくらい、透明な女の子だったのだ。
誰の心のなかにも喜多見柚のような片鱗があり、誰しも臆病になったり楽しいことに身を任せてふらふらしたり、そういうところがあると思っている。
だからこそ、喜多見柚というのは、見る人間の鏡のような少女だったのだと思う。
自分の中にあるそういった、中途半端で生っぽく、なんとなくいやだけれどきらいになりきれないような、苦笑しながら「しょうがないな」と付き合っていくような、むず痒いようなくすぐったいような、そういう要素を、誰しも持っていて、誰しも人の数だけあるそれを、喜多見柚に見る可能性がある。
だからこそ、シンデレラガールズの中でも屈指の、「見る人間によってイメージががらりと変わる少女」だと思っていた。
見る人間の数だけ“喜多見柚”がいて、見る人間の内部を写すようにして、それこそ水鏡のような透明さで、彼女はそこにいる。
見た人間の姿を映し、見る人間の色に染まるけれど、水は水で、掴もうとしても掴めない。どんな姿に変わっても、どんな色に染まっても、水のようにいつでもありのまま、透明にそこにいるような。喜多見柚はそんな女の子だと、そう思っていた。


しかし、いつの間にか、そうではなくなってしまっていた。
私のよく知っている、私の大好きな少女は、気がつけば、もうどこにもいなかった。


私には夢があった。
「喜多見柚を、前代未聞で唯一無二の、無ボイスのままのシンデレラガールにすること」だ。


誰にも本当には勝つことができない、誰かを抜かして一番にはなることはできないとどこかで自分の相応さを悟っている彼女が、その透明さのままでそこに立ったとき、その景色を見たとき、どんな表情をするのか、どんなことを言ってくれるのか、私は知りたくてたまらなかった。
そんな彼女が一番に選ばれたとき、どうなるのか知りたかった。


思えば私は、現実世界ではそうそう叶うことのない、中途半端で身分相応さを知っている者が一番になる、ということを、夢見ていたのかもしれなかった。
私には絶対にできないことが、私に似た二次元の女の子なら成し得られるかもしれない可能性に、奇跡に、賭けていたのかもしれない。
彼女を自分のように思うあまり、彼女に私の夢を、覆い被せていたのかもしれなかった。


けれど、それはもう叶うことはないのだ。
私の“柚”は、喪われたのだから。



声を得ることでなんらかのものをうしなう、ということは、未ボイスのアイドルすべてに降りかかる可能性のあることだと思う。
声の高さや質がイメージと違う、喋り方がイメージと違う、歌がイメージと違う、それらだけでなく、声がついたことで公式の方向性のイメージが固まってしまい、それまで見えていたものが「見えなくなる」なんてこともあり得る(もちろん、それまで見えなかったものが見えるようになる、見えてしまうことや、それまでなかったものが付与されてしまう場合もある)。
我々が目にするその瞬間のアイドルは、その瞬間にしかいない。
二次元だからといって変わらないなんていうことはない。
むしろ、二次元だからこそ、我々が望まぬ方向へ、便利で都合のいいただのいい子ちゃんへ向かってしまう可能性も大きい。


私のアイドルは、私だけのものだったけれど、彼女は、彼女たちは、刻一刻と変わっていた。
私が思うよりも、ずっとはるかとおくへ。



私は喜多見柚に関する一連のことで、一時期本当にめちゃくちゃになった。
前兆はあったにせよ、唐突に公式の喜多見柚が、私の知らない喜多見柚になってしまったことが、あまりにもかなしくて、涙もでないことがショックでたまらなかった。
忘れもしない。あのこの、私の知るあのこではない、知らない女の子の声を聞いたときのこと。胸のどこかがスッと冷めて、ひどくもやもやしたものでいっぱいになってしまったこと。
声優さんを責める気持ちは一切ない。あの声のあのこを、声がついてから変わってしまったと私が勝手に感じている、私の知らない彼女のことを、以前と同じ「喜多見柚」として変わらず愛するひとのこと、新しく好きになってくれた誰かのことを、貶める気持ちも一切ない。
ただ、わかりあえないだろうな、とは思う。
そして、わかりあえないことを責めたりはしたくないので、わかりあえないだろうな、と思っている人間のことを、責めないでほしかった。
運営に(ほぼ、デレステの方に)文句がないと言えば嘘になるが、公式に問い合わせなどの方法で何かを言えるほど今の私はアイドルのプロデュースをしていないので、何も言えることはない。
あのこが死んでから(あえてこういった表現をすることをお許しください)、もう一年も経ってしまった。

あれから、いろんなことがあった。
三ヶ月以上経ってなおTwitterで喚いている私に、「あなたがしていることはただの粘着である」「毒親みたい、彼女がかわいそう」などと言われたこともある。
しかし、大好きだった誰かが変わってしまったことを嘆くことは、そんなに悪いことなのだろうか。
私はほとんど誰にも直接言っていない。リプもしていないし、公式に凸ったわけでもない。自分のTLで、ひたすらひとりで嘆いていただけだ。
ただ苦しい辛いどうしてと嘆いているだけなのに、何故そんなことを言われなければならないのか、今でもわからない。
離れればいいのにと言われた。だが、離れるか離れないかを決めるのは誰かではなく、私だ。
何故そんなことを指図されなければならないのか、わからなかった。

ずっと苦しかった。離れられない、嫌いになれない、でも好きだと以前のように胸を張ることもできない、そんな自分がいやでたまらなかった。
「好きだ」が「好きだった」に変わってしまうこと、変わりたくないのに変わってしまいそうなこと、それが、どうしようもなく悲しくてたまらなかった。今でも、まだ、悲しい。
けれど、それさえも、彼女がくれたものだと思うと、いとしくさえあるような気がする。
もういないのに、それでもまだ、そこにいてくれるような気がしてしまう。
そのくらい、あのこに対する気持ちは、もう一言では言い表せない。
きらいになんてなれない。
大好きだなんて言えない。
愛してるよ。


スターライトステージの話をしよう。
「ビギナーズ」、という名を与えられた、柚と同期でボイスがついた5人のユニット。
「ビギナーズ」とは、何なのだろうか。
彼女らは今までもアイドルとして、他のメインで取り上げられる機会の多い子や、遥か前からボイスつきの子と同じように、ずっと活動してきたはずだ。
もちろん、モバマスデレステの時間軸は違う、ifである、という考え方もよくわかる(別物なんだから素直に楽しめよと散々議論されたことだ)。
けれど、ここで、あまりにも如実に、現実を突きつけられたようだった。
彼女たちは─厳密に言うと「ボイスのないアイドル」、「ボイスがついたばかりのアイドル」は─他のメインで取り上げられる機会の多い子や、遥か前からボイスつきの子と、同じラインにすら立てていなかったらしいということ。
どういうことだ。
どうしてなのか。
そりゃあ、イベントや曲など、「経験していないこと」の差はあるだろう。
でも、イベントや曲などの「ユーザーの目に多く触れる機会」以外で、彼女らはそれぞれに、アイドルとして、向こう側の世界のファンに、アプローチしてきたのではないのか。
そう信じていたのに、彼女たちは「ビギナーズ」だそうだ。
何故?
当時はそこについて思うのみで、コミュのひどさよりもその点への不可解さと不快感と納得のできなさの方が上回っていた。
(コミュもまた特に柚とエンドがひどいのだが、あの流れで柚のコミュがああなること、エンドがああなることは、なんというか、ある意味最悪の結果としてなんとなく予想できてしまったので言うほど憤慨はしなかった。)
割りきれよ、そういうものだと思って楽しんだ方がいいよ、と、当時散々議論されたことではあるが、私は納得できないし、納得できないことを何故責められなければいけないのかわからない。
「公式の出してくるもの」を全肯定するのがプロデューサーなのか?ファンなのか?
少なくとも、納得できない、ということをツイッターで言っているのみなのに、赤の他人に責められ、「また厄介だよ」と嘲笑される筋合いはないはずだ。
「楽しめばいいじゃん」「楽しんだ方が得だよ」「いやならやめれば」などと言うが、そんなことはわかっている。
楽しめない、納得できない、という感情の問題の話をしているのだ。
彼女たちの、モバマスを含まずとも、デレステのみのコミュなどでそれぞれに重ねてきたはずの時間を、すべて棒に振られたような気さえしたのに。


少し落ち着いた今、既存の、主にデレステに実装されている全タイプ曲を中心に、ゲームに触れずに聞き返している。
私は、彼女たちに─喜多見柚に、“そこ”に混ざってほしかった。
けれど、確信してしまった。
彼女は、“そこ”に混ざることはできないのだと。
例えば、ススメオトメや、そういった「みんなで歌っているはずの曲」にさえ、彼女は、混ざることができないのだと。
彼女は、ボイス未実装あるいはボイスがついたばかりのアイドルは、その歌詞の示す「みんな」の中に、入れてすらいない。
アニメにも出たような子達によって歌われるきらびやかで華やかな「みんなで立つステージ」に、彼女はいないのだ。

私が夢見ていたのは、こんな現実ではなかった。


alwaysについての話もしておこうと思う。
With Love内に入っている(何故この曲もイベントのメイン曲だったのに恋が咲く季節のカップリングだったというだけで他のイベント曲のカップリングにされなければならないのか納得はいかない)イベントverのalwaysを聞いた。
イベント当初、「どうして恋が咲く季節ではなく、alwaysの方を総選挙上位での報酬曲のメインにしてくれなかったのか」とずっと思っていたが、今もそう思う。
そのくらい、今まで未ボイスでデレステで上位になったことがなかった彼女たちには、初めて歌う歌としてこれ以上ないほどぴったりの曲だと思うのだ(喜多見柚担としては贅沢を言えば二番にある冬パートを柚に歌わせてほしかったが)。

逆にいうと、高垣楓本田未央がこれを歌うことに特に意味を見いだせない。アニメでもメインで取り上げられた彼女らがこれを歌うことは、「今更」以外の何物でもなく、皮肉ですらあると思うからだ。


二番に、「これからも一緒に歩いてくれたら どこまでも」という詞がある。
しかし、彼女たちの歌う「これから」とは、いったいどこなのだろうか。
彼女たちはいったい、どこへ向かうつもりなのだろうか。
こんなことを言うのは野暮ではあるが、このalwaysを歌う五人は(恋が咲く季節に入っているverのalwaysを本家とは認めないものとする、理由は前述の通りである)、今後、「シンデレラガール」に輝くことはないだろう、と思う。
今回のこの総選挙の結果だって、声をつけるためのブーストとしてランクインしたようなものだろう。
しかし、「ボイス」がついてしまった今、実質、彼女たちにはもうどこにも向かう場所がないのではないだろうか。
もちろん、「シンデレラガールズ」というゲームとして、「シンデレラガール」になることが目的のひとつであることは承知の上だ。
けれど、「シンデレラガール総選挙」が実質人気投票であり、人気はもうすでにアニメ組を中心としたメンツに偏っていること、また、いつの間にかそうなってしまった結果としての「シンデレラガール総選挙」のもうひとつの「ボイスをつける」などという目標を果たしてしまった今、もう実質彼女たちは袋小路である。
彼女たちが行く場所は、もうどこにもないのではないか。

alwaysを聞いて、「もう二度と、私は“私の”喜多見柚に会うことはできないのだ、もう永遠にあの子と会うことはできないのだ」と思い知ると同時に、柚だけでなく、同期で声がついた他の四人に、不毛ではあるが、そんなことを思わずにはいられなかった。


二次元キャラにそんなに入れ込んで、と言われてしまうかもしれない。
たかがキャラでしょ、二次元でしょ、つくりものでしょ。
たかがカード、たかがキャラクター、たかがソシャゲ。
その通りだ。
声がついたくらいで、公式と解釈が違ったくらいで担当を辞めるなんて、そんなものは本当の愛じゃない。
そんなに嫌なら離れればいいじゃん。
そうかもしれない。
でも、だからなんなのだ。
私にはあのこが唯一だったことは、覆しようもない事実なのだ。
誰がなんと言おうと、あのこは私には完璧なアイドルだった。
確かに、そこにいてくれた。
例えそれが私がつくりだした万能の幻だったとしても、私は、確かに実在した、あのこのことを愛していた。
あんな女の子にはもう二度と出逢えない。
もしかしたらこの先、彼女よりももっと好きになるなにかがあるかもしれない。
彼女と同じくらい、もしくはそれ以上に夢中になって、また心を壊したりするかもしれない。同じ過ちを懲りずにまた繰り返すかもしれない。
それでも、あんな女の子にはもう二度と出逢えない。

私にとって喜多見柚とは、シンデレラガールズそのものだった。あのこがいたから、シンデレラガールズが好きだった。
あのこが死んではじめて、そのことに気づいた。


死ぬということは、概念になることだと思う。
元々、少女という生を孕んだまま、アイドルという神さまのような存在として概念をまとって輝きのなかに立っていた彼女が、死んでなお概念になったということを、ずっとどう受け止めていいのかわからなかったが、彼女が死神になったのだと思うと腑に落ちた(現柚Pの皆さま、あなたの担当アイドルにこんな表現をしてしまい申し訳ございません)。


彼女は生まれ変わったのだろう。
これからも、あるいはこれからは、たくさんのひとにもっともっと愛される、素敵な「アイドル」になるのだろう。
たとえそれが私の見ていた、私の知っていた彼女ではないとしても。
私はもうきっとあなたのプロデューサーではいられないけれど、それでも、輝いていたあなたを、私は決して忘れない。
大好きだった。
ありがとう。
あなたを愛せた5年間、私はとてもしあわせだった。
まだしばらくの間、デレマスもデレステもアンインストールできずに、Twitterでぐだぐだ言ってしまうかもしれないけど、もうすこしだけ許してね。
だめなプロデューサーでごめんなさい。あなたのことを、コンテンツが終わる最後まで、どんなに変わっても愛していると言ってあげられなくて、本当にかなしい。

何度生まれ変わってもまた、きっとあなたのことを、私は性懲りもなく好きになるだろう。
あなたが、私にとって知らない女の子になっても、だからこそ、私はあなたのことを愛したことを、後悔するつもりはない。
5年間、私はずっとあなたのとりこだった。


こうして彼女についての文章を書けるほど彼女に対する気持ちが落ち着いてきたことが、ブログを書くことで彼女から本当に離れようとしていることが、自分でも悲しくてしかたがない。
ここ一年で、次第に、どんな感情であれ、彼女を想うことが減ってきたことも。
こうやって彼女への重い重い感情を次第に忘れて、私はこれからも生きていくのだろう。
生きていけてしまうのだろう。
それがどんなに健全なことなのかわかっていても、それがあまりに悲しく、淋しくて仕方がないのだ。
それを依存だと言われても、それでも、悲しいものは悲しいし、淋しいものは淋しい。
私の知っていた彼女を返してくれなどと言うつもりはない。
ただ、そういうプロデューサーがいたのだということを、すこしでも知っていただければ幸いである。


2018年8月22日、モバデレの方で喜多見柚上位イベが始まった。
私はまだ、あの子のことを、忘れられないままでいる。
まだ、もうすこし、見守っていたいような気持ちでいる。
確かに、以前の彼女とは明確に“違う”と思う(かつての彼女ならば「オッケー」などと軽い言葉を何度も使ったりはしなかったように思う)。
けれど、わずかに、かすかに、時折匂わせる以前の彼女の気配が、どうしてもそこにあるかもしれない、と、確認したくなってしまうのだ。


2018年9月24日、やっと、デレマスでの現状の喜多見柚の全カードのレベルと親愛度をMAXにした。
ひとつの区切りだと思う。
やはり、ドキドキ☆カフェ気分(ウキウキ☆カフェ気分)を除くひらめき☆アンサー以降のカードは、なんとなく“違う”感じがする。
もう、戻ってはくれないのかもしれない。
これから先はずっと、あんな感じの柚が、柚として認識されるのだろう。
もう私は、“あんな感じの柚”を、「喜多見柚」として認識することができない。
あの子は誰なのか、誰か教えてはくれないか。


私の好きだった喜多見柚は、いまどこで何をしていて、どんな気持ちでいるのだろう。
しあわせだったらいいのに。
私にそう言ってくれたように、楽しいと笑っていてくれるなら、あなたがどこにいても、文句なんてないのだから。



■追記(2018/9/27)

こんなにもいろんな人に読んでいただき、こっそりRT先を覗きに行くなどして(矮小ですみません)いろんな人のアイドルに対する感情を見ることができて、それの発端が(私の感情ありきだとしても)柚だということが、本当にうれしいです。ありがとうございます。

声については、声がついて「この子は誰だ?」と思ったこともそうですが、「喜多見柚に声がついたこと」よりも、「声優さんの名前」の方でバズってしまったことが本当にショックだったことを思い出したので、追記として書かせていただきます。
「喜多見柚というアイドルに声がついたこと」よりも、その声優さんの名前の方に注目が集まってしまったことが、どうしようもないことですが、不甲斐なくて、柚が可哀想でたまりませんでした。
声優さんは悪くないし、誰も悪くないのですが、「そんなことで唯一無二にならなくてもいいのに」「こんなところでまで柚は不憫でなければならないのか」と、本当に悔しかった。


私は、喜多見柚というアイドルに、ただ絶賛されて持て囃されるだけのアイドルではなく、いろんな人の感情を、人生を、時間を、ありとあらゆる意味で揺さぶれるような存在になってほしかったので、こうしてたくさんの人にこの文章を読んでいただけることが本当にうれしいです。
柚のことに言及していただけるのもうれしく、自分の担当について、あるいは、アイドル観や「アイドルマスター」というゲームに対する在り方を振り返っていただけるのもうれしく、いい文章とかエモい文章とか言っていただけるのも素直にうれしく、また、何よりも、いろんな感情を目の当たりにすることができて、その中心に柚がいることが、本当にうれしいです。ありがとうございます。

けれど、本当にうれしいと同時に、私が彼女にたくさんのものをもらったのと同じくらい、あるいはすこしでも、喜多見柚というアイドルに、あるいは、喜多見柚という少女に、私はなにかあげられていたかな、とつくづく思います。
二次元の存在に等価交換などというのは恐れ多く不可能なことですが、それでも、あのこになにかあげられていたのか、私なんかが担当でしあわせだったのか、そんなことを考えてしまいます。

もちろん、恐らくは、アイドルマスターシンデレラガールズというゲームのコンセプト上、うれしかった、楽しいよ、プロデューサーさんありがとうと言ってくれるのだろうと思います。
alwaysが、何よりのアンサーです。

けれど、「アイドルマスターシンデレラガールズというゲームのコンセプト」としてではなく、ひとりの少女として、あのこになにかあげられていたか、あのこ自身に問ってみたかった。本当はどう思っていたか、対話をしてみたかったな、と、夢のようなことを思っています。

この文章を読んでなにか感じていただければ、それに勝るものはありません。
どうかこれが、今目の前にいるアイドルのことを、すこしでも何か考えたりするちいさなきっかけになりますように。



■追記2(2018/9/29)

この文章を読んで私が他の柚Pに攻撃されたと思われた方がいらっしゃるかもしれないので、念のため補足しておきます。
私にいろいろと忠告をくださったのは、柚Pの方々ではなく、主にアイマスが主ジャンルではない方です。

柚Pの方々はおだやかで聡明で素敵な方が多く、私が荒れていても何も言わず放っておいてくださったり、SSRが出たとき心配してくださったりして、当時本当にありがたかったです。重ね重ね、お礼申し上げます。

けれどだからこそ、この現状を少ししか、あるいは知らない人間に色々と知ったようなことを言われるのがとても悔しかった。

アイマスだけではなく、これは誰にでも、どんなジャンルにでも起こり得ることではないかと思います。
そういうとき、当事者も周囲も、どういう対応や反応をするのが正しいのか、それは時と場合や人によると思います。正解はわかりません。というか、恐らくないでしょう。

自分が解決したその方法が、他の人にも当てはまるかといえばそうとは限りません。
軽率に「距離をおけば」「やめれば」と言うのは簡単なことですが、思い入れが深ければ深いほど、これほど受け入れがたいこともないことを、上記を踏まえた上で、知っておいていただけると幸いです。



■追記3(2018/9/29)

いくつか、指摘としての「ボイスなしでのシンデレラガールは初代の十時愛梨、第四回の塩見周子が実現済み」というものを拝見しました。
これは単なる私の無知でのミスでした。大変申し訳ありません。

ただ、例えばボイス総選挙などが開催されるようになったり、デレステでボイスがなくてはメインにもなれないような「今の状況」で、喜多見柚という普通のアイドルに無ボイスのままそこを勝ち取ってほしかった、という意味での「唯一無二」と捉えていただけるとありがたいです。


また、「alwaysを歌うのは総選挙を勝ち抜いたからであり、高垣楓本田未央にも十分歌う権利がある」という指摘も見かけました。
「総選挙を勝ち抜いたから」という理由ならば、本当にその通りだと思います。

しかし、アニメでもメインになった高垣楓本田未央には、alwaysのような「プロデューサーとの出逢いを振り替えって感謝する歌」や、恋が咲く季節のようなライトなラブソングではなく、もっとすごい曲、といっては陳腐な表現になってしまいますが、「彼女らが総選挙を勝ち抜いたからこそ歌える曲」を歌ってほしかったのです。

高垣楓本田未央が、はじめてボイスがついた5人と肩を並べて「私を見つけてくれてありがとう」と歌うのは、あまりにも今更で、皮肉がすぎると思うからです。

それをするくらいなら、難しく贅沢なことではありますが、高垣楓本田未央、そして藤原肇、荒木比奈、喜多見柚、また、佐久間まゆ、村上巴、関裕美、この9人が、肩を並べて歌っても違和感のない曲をつくってほしかった、「その時のそのアイドルたちに合った曲」をあげてほしかった、という思いで書きました(そうでなければ、ボイスがついた五人も可哀想ですし、高垣楓本田未央佐久間まゆがあまりにも報われず可哀想だからです)。

誰しも目の前の担当は特別だと知っているのに、未熟な表現で誤解を生んでしまい、申し訳ありません。

すべてのアイドルがそれぞれに輝ける場所があることを信じたいです。