白昼夢

いつも眠いひとが色々いうブログ

グッバイ、ドン・グリーズ!から受け取ったものたち

感想がとっちらかりすぎていてもう収拾がつかないのでそのまま載せます


以下一回目感想


よかった
最高だった
終始泣いておった

ねとらぼの記事のタイトルで「疎外感」という言葉だけ見ており(Googleの検索タブひっぱると出てくる「お前これ好きだろ?」って感じのやつででてきた)、ネタバレは踏むまいと読まないながらも「絶対好きだろうな」と思っていましたが、マジで好きでした
マジで好きです たすけてくれ
いつもなら感想を怒涛のごとく一時間くらいかけて打つのだがそれもできずにぼんやりしていた

映画館で涙がこぼれるほど泣いたりしないんですけどもう序盤からぽろぽろぽろぽろきていました
あまりにもいとおしくて……輝かしくて……
疎外感が身に覚えがありすぎて……切なくて……
本当にあまりにもあまりにもいとおしい
どんなに誰かが君たちを疎外したとしても、君たちは輝いているし、世界は美しい
すべてがきらきら輝いている……

何て言葉にすればいいかわからないな

何度も言うんですけど、わたしは「キャラのための物語」と「物語のためのキャラ」なら「キャラのための物語」が好きで、この作品はまさに「キャラのための物語」で、本当によかったです
キャラが動くからこそ物語が動いていく感じ
三人の男の子がいろんな表情をしながらドッタンバッタンにぎやかに動くので本当に見ていて泣きながらニコニコしていました

家に帰ってから入場特典のミニ冊子を読んだら、チボリのことやトトの恋の裏話なんかが監督によって語られていて、「ここまでキャラクターを作り込むから、キャラクターが動くからこそ物語が動くように見えるんだな!!」と思いました
みんなのことがよりいとおしくなるね……
ロウマとトトがハブられている理由はちゃんとキャラの説明とかを読まないとわからないかもしれないですね
恐らくロウマは日常的に実家でこき使われているのを同級生に見られているからで、トトはお腹が弱いからなんだろうなと思う

わたしは「疎外感」というものに本当に弱いんですよね
まず、ロウマ、トトというふたりが学校で浮いていて、ふたりだけの秘密基地があったりふたりだけのコンビ名みたいなものがあって(ドングリーズ)、そういう疎外感や孤立感のさみしさからくる連帯感、取り残されたからこそのふたりだけの特別!みたいな感じがすごく上手くてとてもよかったです
なんていうか、そこにある寂しさだけではなく、だからこそできた絆、みたいなものにスポットを当ててくれて本当にうれしい
誰かに仲間外れにされること、また、そんな意図はなくても不意のタイミングで枠から外れて楽しそうな人たちを見つめるしかなくなってしまうこと、その描き方が本当にうまい
身に覚えがある
ロウマとトトがふたりしか知らないことを楽しげに話しているときのドロップの表情、本当に切ない
わかるよ……
ドロップはずっとひとりだったんだろうなと思うと切なくて泣けてくる
寂しさ、孤独、疎外感、そういうものに本当に弱くて、そういうものがずっと好きで、なので、疎外感というあまりメインとして据えられないものをテーマのひとつとして据えた作品を作ってくれて本当にうれしかったです

よりもいのときは四人だからこそできたドラマだったけど(あれはちょっとイヤな方向に女の子ならでは感があったかも)、今回は三人だからこそ、しかも男子だからこそできる「男の子~~!!」って感じもよかった
女装したふたりとちゃんとした服着たひとりで転げてげらげら笑う男の子三人、最高でしょ……

「三人」という人数だからこそ、「三人」と「二人」と「一人」が描けるので(これは四人以上だと増えすぎてむずかしい気がする)、ひとつのテーマとしての「疎外感」を描くのに三人というのが本当にベストでよかったですね
まずひとりひとりが疎外感や孤独感を抱いていて、そしてロウマとトトというふたりになり、そこにドロップが加わって三人になる
疎外感を抱いていた狭い世界から飛び出して、井の中の蛙であることをトトは知り、トトの気持ちをドロップを通してロウマは知る、そして空を見上げたロウマは、星空と流星の美しさにあわてて二人を呼ぶ
一人、二人、三人、というドラマの連なりがあまりに見事
井の中の蛙大海を知らずされど空の深さを知る」なんですよね
三人で星空を見つめる、星の多さから自分はなんてちっぽけなんだと省みる、そして世界は美しいと瞳を輝かせる、そこで歌われるTwinkle,Twinkle,Little Starの楽しさよ……
トトが「太陽がいなくなるなんて寂しい」みたいなことを言うけど、ドロップは常に前向きに「でもそこに星があるってことだよ」みたいなことを言っていて、ドロップの秘密を知るととても切なくなる

この作品、ずっと終始「寄り道してもいいよ、遠回りしてもいいよ、サボったり余計なことをしても、その結果得るものが必ずあるよ」をやってくれていて、その結果本当にキラキラしていて、いとおしくてたまらなくて泣けてきてしまう
ドロップが常に進もうとして結果遠回りを選んでしまうの、生き急いでいるという意味でも、結果的に三人でいる時間が長くなるという意味でも、ぽいなぁと思うしエスプリ効いてるなぁと思う
まっすぐな道では得られないものが、曲がりくねったり遠回りしたり寄り道したりする過程では確実に存在するんですよね
それは経験であったり、人との出会いであったりする
ロードムービーであり、誰かと誰かを繋ぐ電話がキーアイテムなのもあって、やっぱり「足跡を残していくこと」なのかなと思います

ドロップが可哀想な感じじゃないのが本当によかったな
病弱描写とかもなかったのが逆によかった
病弱描写はなくてもどことなく儚い印象的なカットはいくつかあるんですよね……
わたしは中学生の頃から、金髪の病弱美少年が大好きなんですよ
明るく気丈に振る舞うけどどこか達観している男の子も大好きなんですよ……
ドロップ……
全部持ってるドロップ……
あぁ~~~ドロップ~~~……
好きすぎる 流星みたいな男の子だな……

ドロップがいなくなってからがある意味この作品の言いたいことなんだろうなと思うんですが、それはドロップと一緒にいた、ロウマとトトとドロップという三人でいた時間があるからこそ効いてくる尊いもので、あまりにも構成がうまくてひぇ~となってしまう
ふたりで旅するロウマとトトの隣にドロップがいるように感じました
もちろん三人でアイスランドの電話ボックスに行ってほしかった気持ちもありますが、たぶん三人で行ったならばああ見えて思慮深いドロップは自分の痕跡を隠そうとするだろうし、ドロップがそこにいた証、ドロップがロウマとトトの声を聞いた証は、ロウマとトト、ふたりだからこそ見つけられたものなんだと思うと、あまりにもあまりにも上手くて唸ってしまう

ドロップがいつも前向きでいて、それでいてどこか達観しているのは、いつ自分の世界が閉じるかわからないことを知っているからなんですよね
本当は普通に生きている健康な我々だって同じなのに、つい忘れてしまう
彼はロウマとトトをひっぱることで、見ている我々にも宝物を遺してくれた
ドロップみたいになりたい……

ドロップがいなくなったことは作品やキャラクターにとってただ哀しいことではなく、確実に何かを見つけられる鍵、プラスになっているんですよね
こう言っちゃなんだけど、ドロップはいなくなることに意味がある
誰かの死や喪失に意味を見出だせるのは、誰かがそれを想い行動するからなんだろうなと思います
やっぱり人間が動くから物語が生まれると思っているんだな

ドロップが髪を伸ばしている理由と、ドロップがいなくなってからロウマとトトふたりも髪を伸ばして寄付して、っていう描写あまりにもやさしくて好きだなぁと思い返していて思いました
ドロップの髪型もドロップの神秘性に拍車をかけていると思うんですけど、それに対する理由、あまりにも健気で本当に泣けてきてしまう
ドロップが好きだ……

わたしは将来の夢に「灯台をたてること」を掲げているのですが、本当に灯台のような映画でした
ここでいう「灯台をたてる」というのは、誰かに見つけてほしいと光る、あとに続く誰かのために道を照らす、そういうものをつくる、という意味で、小林大吾氏の「いまはまだねむるこどもに」そのものなのですが( https://suzuri.jp/TRINCH/1912185/t-shirt/s/black の説明文より)、本当にそういったエピソードというかそういうメッセージがあちこちにちりばめられていて、本当にわたしのための映画だと言っても過言じゃないという感じでした
ダイレクトに灯台が出てくるわけではなく、この映画では電話ボックスやTwinkle, Twinkle,Little Star、つまりきらきら星なのですが

電話ボックスとかコーラとかカメラとか、アイテムの使い方が本当に上手
全部「誰かに何かを伝えるためのもの」として描写されている
アイテムやモチーフの比喩やメタファーを考えるのが大好きなので、そういうのがそこかしこにちりばめられている作品は本当に考えていて楽しい

「ここにいるよ」と光る小さな星は、必死で電話ボックスを探して、たまたまロウマとトトの声を聞いたドロップそのものなのですね
そして同じくらい、その小さな星は、ロウマとトトでもある
「ここにいるよ」「見つけてくれてありがとう」そして、「またここへくる誰かのために」
ドロップはアイスランドの電話ボックスでまだ見ぬ未来の友達へメッセージを残し、ロウマとトトへ会いに来て(たまたま会えたのか本当に粘り強く探したのかはわからない)、友達になって、自分の最後を見届けてくれたふたりへメッセージへたどり着く雑な(ここも男の子!って感じでいい)宝の地図を残した
トトはドロップの死で自分の無力さをもっとより痛感したことで、きっと宝物を見つけて守るために医者になる努力をするのでしょう
ロウマがどうするかはわからないけど、でも、きっと、顔も知らない誰かのために何かを残すように歩いていくんだろうなと思います
ちょうど、ふたりが取りたくて切れてしまった電話のように、誰かが誰かにメッセージを送っていて、彼らもあとに続く誰かのために道を照らすんだろうなと
すべての構成がうつくしい……

あまりにもすべてが刺さりすぎてどう言えばいいのかわからないですが、宝物みたいな作品になりました
また見に行きます



以下一回目を見たあと思い返していて気づいたことやじわじわきたことなど


ドロップ、ロウマとトトにとって、まるで青春を連れてきて連れ去っていくような男の子だな……
本当に流星みたいな男の子なんだよな
ドロップの訪れによってロウマとトトの「ドングリーズ」は綻びが生まれて、ドロップがいなくなることでロウマとトトは「ドングリーズ」を卒業する、別の形へ生まれ変わる
まるで羽化するみたいに
ドロップにとっては二人との出会いが羽化だったのでしょうが……
数年たったら本当にいたかわからなくなってくるような、ロウマとトトにとってのオムファタル、ティンカーベルのような存在
よくよく考えてみればデザインの時点でドロップはロウマとトトとは違う変わった服を着せられてるのでやっぱ意識してオムファタル的な立場になってんだわ
ドロップがあまりにも理想の男の子過ぎて概念化がとまらんよ あの子だって等身大の男の子なのに

最初の方で東京ばな奈?の包み紙を食べ終わったあとおもむろに引き出しにいれるドロップに、トトが「ごみためんなよ」みたいなことを言って「違うよ、宝物だよ」とドロップが返しており、終盤でドロップが書いたコーラのラベルの裏のメッセージや宝の地図のコーラのボトルを見たロウマとトトはきっとそれらを捨てられないだろうなと思うと、その辺りも伏線に見えてきてすごくいいなと思う
ドロップは甘いものが好きなのかな

ドロップがいなくなったことでロウマがやけを起こして秘密基地をめちゃくちゃにしてしまったので後始末としてロウマとトトふたりでその残骸を燃やす、つまりドロップがいなくなったことでドングリーズ解散、ということで、やっぱりもうとうのむかしにドロップはドングリーズの仲間になっていたんだなぁ!!
一度ドロップを迎え入れてしまったことで、ドロップがいないドングリーズはあり得なくなってしまったのかもしれない
だからもうロウマとトトふたりだけではドングリーズではいられない
新しいかたちになるしかない
ドロップ……

そうか、ロウマがやけになって秘密基地を壊してしまったあとに秘密基地を燃やすのは、葬式の比喩か……
ドロップの火葬なのかあれは
ふたりだけの葬式
ふたりだけしか知らない勇敢な部分を持つ男の子
ロウマが時計を割るのは「止まった時間を動き出させる」比喩なのか
火葬であると同時に、やっぱり「子供時代への卒業」なんだな
宝物を守れない、ついこないだまであんなに元気に笑っていたともだちひとり守れない、「無力である」ことを痛感して少年たちは大人になる
ドロップが死ぬことは哀しいことではなく、人が死ぬのは当たり前のこと
ドロップはきっと、自分の病気や死期を、できたばかりの心からのともだちに、深刻に受け取って欲しくなかったし、じめじめしてほしくなかった
でも哀しいものは哀しいよね
その哀しみはロウマとトト、ひとりひとりのもの
切ないね

ドングリーズのタイトル、「ドングリーズというグループへのさよなら、子供である自分から殻を破って先へ進もう」という意味と、「don't gleesへグッバイ、大喜びしてはならないと自分達で自分達を縛っていたものへさよならをする」という意味でのダブルミーニングがあまりにも美しくてのけぞってしまう

赤い電話ボックスを探していたドロップが、チボリがロウマのカメラで撮った、青い花の写真に写ったてんとう虫が飛び立つ赤いラインを指して「チボリちゃんは赤を撮ったんじゃない?」って言うの、めちゃくちゃいいな……

ロウマが持ってきた缶詰を三人でめちゃくちゃめちゃくちゃこすって開けるとこほんと好き
ギャグのシーンなんだけどだからこそ顔がマジなんだよな~たぶん作中でいちばんいろんな顔してる
あと開いた!てなって三人で抱き合って喜ぶとこも好きだし、そのあとちゃんと(ちゃんと?)木の棒で食ってんの好き
缶切り持ってこないバカが箸とかスプーンとか持ってきてるわけがないんだよな~~~バカだから……
絶対トトお腹壊したでしょ
かわい~~~ね……

トトがドロップに内心を吐露するシーンもほんとに好き……
トトの泣き顔が全然きれいじゃなくてきったなくてみっともなくてだからこそ切実なのが本当にいい
トトがいちばんカッコつけだと思うから(常識とかを考えてしまう大人な面がいちばん大きいので)、そこからだんだんトトの「優等生」が剥がれていくのがとてもいい
焚き火に参考書放り込んで言うのが「火、消えかけてたから」なのも照れ隠しで男の子で本当によい
真面目でいようとするトトの大人びた背伸び感も年頃というか男の子というか等身大感があって本当にいいんだよな……

ドングリーズ、なんかのレビューで「冒険にたつ理由が山火事の原因の犯人じゃないって証明するためなのがマイナスでワクワクしないのがよくない」っていうの見たけど、バカヤローそこがいいんじゃねぇか!そういう引け目で冒険に出掛けるのにうっかりワクワクしちゃうのが後ろめたくて後ろ暗くていいんじゃねぇか!と思う

ロウマが夢で崖みたいなところに立って、その上の崖に立ちすくんでいるドロップを見上げるシーン、「ここだよ!ここにいるよ!」でもあるし、だんだん回りの崖が少なくなって塔のようになっていくのも、「井の中の蛙大海を知らずされど空の深さを知る(これから)」を示してるんだろうなと思うとぐっとくる
ロウマとトトより世界の広さを知っているドロップが、世界を知らずに井の中の蛙であったロウマとトトに出会って宝物を見つけるのマジで最高だな

いやでもドングリーズ、テレビアニメシリーズにしちゃったらこんなに勢いは出なかったと思うな……
テレビシリーズだとなんか間空いちゃうからそのときのテンションによってもどうしても没入感に差が出てしまうんだよな
劇場だといっぺんに見ていっぺんにワーーーとできるからいい

ドングリーズ、確かに適当に検索して映画サイトを見てみると「突飛すぎる」とか「やりたいことはわかるけど描写が足りない」とかはちらほら見るな
確かにちょっとしゃべらせすぎなところはあったと思う
でも軽快なぽんぽんとした口喧嘩とか軽口を叩くような感じはとてもよかったですよ

天気の子見たときも思ったんですが「お前は間違ってないから大丈夫」とでかめの作品から言われたような気になるととてもうれしくなりますね

適当に検索して見たドングリーズの映画レビューに「これは詩だ」ってあって「詩の何が悪いんじゃい!!」と時差でなっている
ドングリーズは確かに詩に近い作品だと思う
でもそれがいいんだよ
わたしはそれが好きだし、詩の何が悪いんだと思うよ
たぶん「詩みたいな」って感想のひとは「青くせーポエムみたいな」って意味で言ってたんだと思う
実際陰キャの青くせーポエムみたいな内容なんだけど、でもわたしはそこが好きなんだよな

ドングリーズ、男の子の話なんだけど、なんかどこかホモソーシャルじゃなく透明なのがいいなと思う
いや、少なくともロウマとトトを取り巻く世界はホモソーシャルのいやなところが出てんだけど……でもふたりの関係はホモソーシャルじゃない気がするしドロップはなおさら
ブロマンスでもないんですよね
名前がつけられない
強いて言えば「ドングリーズ」なんですよ
何て言えばいいですかね
もうこの作品に敬意を表してこういう男の子たちの透明でかわいらしい関係を「ドングリーズ」と呼ぶでいい気がする
ホモソーシャルの「俺の方が上だぞ」みたいなのがないんですよねロウマとトト
あとからきたドロップは不思議な子だし、マウントの取り合いがない
でもお互いに「お前にこんな顔は見せられない」というプライドのようなものはある……
迫害されて疎外感を感じている隠キャの男の子たちだからなのかな
力ではなく内面を、認めるではなく信じている感じというか
「お前のこと信じてる(から結果を出せよ)」じゃなくて、「お前のこと信じてる(からそのままでいいよ)」という感じがする
透明……
ロウマとトト、クラスのカースト戦争という闘いに破れた男の子同士だから、お互いといるときは変にがんばらなくていいというのはあるのかもしれない
ロウマとトトはお互いが頑張らなくなっても「そっか、疲れたよな、まぁいんじゃね?」って言いそう
実際トトがサボったことについてもドロップが「いいの?」とは聞いてもロウマはなんも言わんかったし

まぁ確かにドングリーズによりもいを期待したら「なにこれ」になるわな
尺もキャラも話も違うんだからそりゃそうだよ
同じなのはメインスタッフだけなんだから
正直興業収入的にはドングリーズつくるよりよりもい総集編つくって前後編とか三本だてとかで劇場でやった方がよかったと思うので、ドングリーズ新しくつくる!ってちゃんとつくってくれてマジでありがてぇなと思っている
売れるかわかんない博打で新しいものつくるより売れたものを再編集した方が安全なのはそれはそうなんですよ
でもそれをしなかったの本当にありがたい

全然ネタバレじゃないとこをいうとトトがおにぎりおとしたので「おとした……」って言うとこの声のトーンめっちゃすき
トトが梶裕貴なのまじでいい
今までだったらロウマが梶裕貴だったと思うんだけど、そうじゃなくてトトがなんですよ

おれが隠キャだからドングリーズが刺さったならもう一生隠キャでいい……
誰にでも青春をする権利がある

ドングリーズ、歩いていてふと知り合いを見かけたら慌ててつい隠れてしまうような子達の話だし、だからいいんだよな……

確かによりもいに比べると、ドングリーズはセリフが多めで説明的なところは否めない、尺的にもしょうがない
でも状況の説明じゃなく、感情の説明なんですよね
感情の作品なんですよ よりもいもそうだけど、よりもいは時間をかけたからこその感情で、ドングリーズは勢いの感情だった

仕返しが誰も傷つけない方法だったのがよかった

三人で踊るシーンは確かに三人ともカメラ目線なのは違和感があった

ドロップにとってキックスケーターも見ていてほしい友達なんだよなぁ
ドロップの孤独を思うと胸が苦しくなる

ドングリーズ、「世界は思っているより広くて狭い」なんだよな……
世界は広くて広大で、君たちが駆け回るのに不自由しないくらい大きいが、同じくらい、手を伸ばして届かないところはないくらいには世界は狭い、そして信じられないくらい世界は美しい、だから飛び出せ、殻を破れ、なんだよな……

・「ドン・グリーズ」であって「どんぐりーズ」ではない、とトトは言うが、それをトトから知らされる前、「どんぐりーズ」だと思っていたロウマ(と短い間だけれどドロップ)の時間も、それは決して「間違い」ではない
「どんぐりの背比べ」だと思っていたロウマの時間も、けっしてむだではない
ここでも「寄り道してもいい、遠回りしてもいい、サボったり余計なことをしても、その結果得るものが必ずある」が結果的に描かれている
実際、トトに「どんぐりじゃねーからな」と言われるまでの三人、水に落ちるシーンがやたらと多いのである
「どんぐりころころどんぶりこ おいけにはまってさぁたいへん」なのである
よく覚えていないので二度目で確認するが、トトから「どんぐりじゃねーからな」と知らされたあとは、三人が水に落ちるシーンはほとんどなかったのでは
そして、71号線の行き止まり、そこは水没した道路であった
水没した道路へ三人は足を踏み入れることができない
「どんぐりころころどんぶりこ」ができないのである
一度、トトから「どんぐりじゃねーからな」と言われた瞬間に彼らは「どんぐりーズ」であることを卒業し、「ドン・グリーズ」になるわけだが、ここで彼らは二度目の「どんぐりーズ」を卒業する羽目になる
この作品において、水というのは少年であること、子供であることの象徴なのかもしれない
ロウマが水辺で顔を洗うドロップに見蕩れるシーンも、つまりどうしようもないほど「永遠に子供であることがわかっているドロップ」に理由もわからず見蕩れる、ということなのではないだろうか

・物語の文脈として必要だろうと思われる、例えばロウマとドロップの出会いなどをカットし、一見馬鹿馬鹿しくて意味がないと思えるような、「今までロウマとトトを迫害してきた奴らへ仕返しをするために女装をし、結果成功し(?)笑い転げる」「三人で歌を歌って踊る」「缶切りがなく開かない缶をこすって開ける」というシーンをあえてカットしないのは、そこに輝かしい少年たちの「瞬間」、「今」があるからで、それはいつか「想い出」になるものだからである
物語として大切な文脈よりもそれを描くことを優先した、それは、「輝かしい瞬間は通りすぎてしまう、けれどそれはなかったことにはならない」という作品が伝えたいであろうメッセージにも該当する
また、「女装をし今までロウマとトトを迫害してきた奴らへ仕返しをする」「缶切りがなく開かない缶をこすって開ける」というシーンは、三人にとっての「三人での」成功体験である
成功体験を積み重ねその瞬間を共有することで、重ねていうがそれは輝かしいプラスの想い出になり、「僕らは枠を越えることができる」という自信を彼らに持たせる効果に繋がっている
さらにいえば「女装をし今までロウマとトトを迫害してきた奴らへ仕返しをする」のは、元はといえばドロップが言い出したことなのである
ドロップはふたりが迫害されてきた時間の積み重ねを知らない、ふたりがどういう思いをしてきたのかを目撃はしていない、それでもふたりの気持ちを汲み上げるようにして「仕返ししてやろうよ!」と言う
これはドロップの思慮深さと思いやり、やさしさの賜物ではないだろうか
そもそも作中のなにもかもを「やろうよ!」と最初に言い出すのはドロップなのである

・ロウマとトトだけスマホを持っていて、ドロップはスマホを持っていない、ロウマとトトはドロップの連絡先を知らない?
ドロップが入院するのは町の大きな病院、医者であるトトの父を通してしかドロップの現状をロウマとトトは知ることができない(ロウマはトトの父の連絡先も知るわけがないので、ロウマはドロップの現状をトトを通じてしか知ることができない)
これは無力さの演出でもあり、大人になることへの演出でもあるのかも

・存在する、生きるということは、世界を汚すということである
よりもいでもまっさらな白い雪に足跡をつけることの喜びを語るシーンがあったけれど、それと同じなのである
生きるということは足跡をつけるということで、足跡をつけるということは世界を汚すということ、世界を汚すということは世界を彩るという意味でもある

ドングリーズ、三回卒業があるんだな
一度目はトトに「どんぐりじゃねーからな」と言われた瞬間、二度目は71号線で水没した道路に行き当たった瞬間、そして三度目は、ドロップがいなくなったことを知ったロウマが秘密基地をめちゃくちゃにしてしまったので後始末としてロウマとトトふたりで「ドングリーズ」の看板を燃やすシーン

少年たち、徐々に大人になっていく……

俺たちは異なる人生を歩んでいる

こんなにも一緒なのに、僕たちは一緒ではない

ああぁドングリーズ、「僕たちはチームであることを卒業して個人になる」じゃん!!
その上で、ロウマとトトは「ふたりで」アイスランドに行くことを選択してるんじゃん……
だってもうあの段階ではふたりは「ドングリーズ」ではないわけじゃん……

グッバイ、ドン・グリーズ!、マジですべてを肯定してくれる
わたしはきっとこのような作品を待っていたのだ
君を待っていた

「僕たちは別々の生き物で、別々の人間である」がめちゃくちゃ好きなんですよ

考えれば考えるほど好きな要素が増えていくから苦しくて楽しいよ

ロウマとトト、「ドングリーズ」という「ひとつ」から、「僕とお前」という「ふたり」になったんだよな……
皮肉なことに、ドングリーズじゃなくなったからこそ、ふたりはお互いのことを本当に見つめられるようになる
ドロップは元々突然現れた異分子なので「ドロップ」なのだが……(ここでもドロップの孤独だけが如実でつらい)

動くことは生きること、動くことは世界が広がること

わたしは少し前まで「空気のような存在になりたい」「わたしという存在が生きていて何かに介することでその何かや誰かを変えてしまうことが怖い」と思っていて、「自分という存在が生きていることで、ただそれだけで誰かの何かに介入し誰かのなにかを変えてしまう」ということが、あまりにもすごくて素晴らしいことであると理解した今でも、それは素晴らしいからこそ重く怖いことだと思っているのですが、ドングリーズ、「僕たちは別々の人間である」「でも、僕たちは関係し、交わり、介入することで、お互いのなにかを無意識に変えている、変えてしまう」ということをかなり透明な位置で描いているっぽく(マジで気づかんかったフォロワーありがとう)、そして「それは怖いことだが、素晴らしいことでもある」「僕たちは“僕たち”から、“僕とお前”になることで、お互いを見つめることができる」「“ドングリーズ”というひとつ、チームでいるときには、目の前の“お前”を見ることができなかった」「でも今、それぞれの人生と自意識と自我、哲学を持ったひとりの人間として、お互いに向き合うことができて、その違いを知り、それを喜ぶことができる、それをお互いの豊かさにできる」ということのようで、なんというか、それだけで正直でかいテーマにできると思うのだが、メインテーマの「僕らは殻を破る」「瞬間はいとおしく、それが過ぎ去ってもいとおしい想い出になる」「現実は簡単に変わってしまう」みたいなところに寄り添うように透明に描かれていることがあまりにもすごくて「なん なん 何!?」となっています
なんでこんなにグッバイ、ドン・グリーズ!という作品、わたしのツボしかついてこないんですか???こわい

ドングリーズ、男の子の物語なんだけど、「高め合う」じゃなくて「互いに豊かになる」なんだよな……

「世界」というのは同時に「お前(君)」なんですよね
世界を知れば知るほど隣にいるお前を知る
「逃げたくなるほどなるほどに、世界はそっと近づいていく」し、それは同じくらい、「お前」と近づく、「お前」の心を知るということなんですよね
「お前を知る」ということは、「自分は自分というひとりであり、お前はお前というひとりである」ということを認識しなければできないことで、「お前を知れば知るほど」、「自分とお前は別々の生き物であり、別々の人間である」ということを思い知らされるということでもある

ドングリーズ、「火」は波乱をつれてくるもので(花火、焚き火、燃やした看板)、「水」は自分を知るものなのかもしれない
でも赤は「見つけられるもの」の色なんだよな(赤いパーカーを着たロウマ、てんとう虫のライン、赤い電話ボックス)

ドングリーズ、よりもいみたいな「ここではないどこか」ではなく、「俺はここへ行く!!」なんだよな

もうわたしはわからないまま曖昧にはしたくないので、ドングリーズのメタファーも理解したらちゃんと記録するわ
これは「これを受け取ったぞ」という未来の自分への足跡でもあるのだから

足跡を残せ
いつかここへ来る誰かのために
灯台を立てろ

チボリはヒロインではなく、「空気ヒロイン」と言われるとヒロイン的な立場としては確かにそうなんだけど、「空気」ではなく「ただかつてそこにいて、今違う場所で生きている女の子」なんだよな
世界の広さと狭さを少年たちが知るのに「違う場所で生きる、かつて同じ場所にいた女の子」はある種効果的で、そして彼女はロウマにとって同じものを共有した想い出があるので大切な人なのである
ロウマの未来にとってもきっと大切な人になる
そしてドングリーズの本当の意味での概念的ヒロインはドロップなのである
ドロップなのである……
でもドロップは男の子だからね!!!!!

チボリがいなかったらロウマとトトの電話は赤い電話ボックスに繋がっていないんだな……
シナリオ上の役割っちゃ役割なんだけど、ロウマの過去でちゃんと「自分を持った等身大の女の子」であることが描かれているので、役割的な空気にはならない
「存在している」
チボリ、ロウマの過去と未来に密接に関係している女の子だ……

ドングリーズ、よくよく考えてみなくてもボーイ・ミーツ・ボーイなんだなぁ!?!?
いや あの 好きです
好きにきまっとるやんけ

ドングリーズ、本当に本当にしみじみとここが好きだなと思うとこ、ドロップがぜっんぜん「可哀想な男の子」じゃないとこ
ドロップは全然可哀想なんかじゃないんですよ
人が死ぬことは哀しいことじゃない、ただただ当たり前のことなんですよ
ドロップにとっては、あのときがそうだっただけ
哀しいのは、もう会えなくなること、もう一緒にいられなくなることなんですよ
哀しいという感情はロウマとトトのもの
ドロップは、どうしても手に入れたかった宝物をちゃんと手に入れて、全身で世界を感じて、全身で精一杯生きて、満足していなくなったのだから
そりゃ、せっかく心から笑い合える友達ができたのだし、もっと生きていたいと思っていたことでしょうが、それでも、「世界が閉じるときに後悔はしたくない」という言葉のとおり、最後の心残りであった「宝物を見つけること」「最後に友達と何かすること」「友達に自分の最後の勇姿を見届けてもらうこと」をきちんと成し遂げた
ドロップは本当にかっこいい男の子なんだ
どんな感想でも受け入れる気持ちでいますが(それが見た人だけのドングリーズなので)、ドロップが可哀想という意見があったならばそれだけは心から否定できる
あの子は満足して逝ったんです
きちんと自分の信念を突き通して、哲学を全うして生きたのです
フォロワーの感想での「ドロップが死に目を見せてくれるわけがねぇよなぁ!」というのは本当にそうで笑っちゃった
弱っている姿を友達に見せたくなんかないんですよね、トトだけじゃない、男の子だから……
ドロップという男の子が本当に好きだなぁと思う

ドロップは、世界の広さをロウマとトトふたりに見せたんですよ
滝がどんなに大きいか、どんなに美しいのか、高いところから見下ろしたときにどんな気持ちになるのか、赤い電話ボックスが本当にあったことも、ドロップはロウマとトトに教えたんですよ
ちゃんと自分の生きた証と軌跡を残した
それがどんなに小さいものであっても、人から見たらちっぽけなものであっても、この世でふたりしか知らなくても、それでも、それはキラキラ輝く「宝物」なんだ
ドロップは本当に美しくかっこいい生き様を残してくれた
わたしはあの子の誇り高さがあまりにも好きです

ドングリーズ、ビジュアルガイド見てびびったとこ
見ただけでは気づいていなかったのだが、トトがロウマに電話を差し出して言うやりとりをドロップが受け取っているのは見ていればわかるのだけれど、そのトトのセリフがそのままドロップの「最後の信念」になっており、そのトトがロウマに電話を差し出して言うシーンのコンテのセリフを見て「ウ、ウワーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」となった
マジで一度見ただけでは気づかなくてビジュアルガイド見てびびったので本当にコンテを全部読みてぇ
文字情報じゃないと噛み締められないものがある

あとラストロウマとトトがアイスランドでふたりで乗っているキックスケーターがドロップのものらしくて、「本当に三人でアイスランドに行ったんじゃん!!!!!!!!!!!!!!!」となった

「一人で立ち向かおうとするからビビるんだ
お前の15歳、最後の勇姿を見せつけろ
ここでしっかり見届けてやる
信じて進めば、欲しいものは手に入れられるはずなんだ!」

「15歳最後の勇姿を見届けてくれる友だち💧」

何気なく発した言葉が誰かの信念になったりするの、あまりにも重くてあまりにも美しくてどうしたらいいかわからない
我々が何気なく普段発している言葉も誰かの背中を押したり同じくらい傷つけているかもしれない
言葉は強い
人間を生かしも殺しもする

もう作中で「ここにいるよ!」「届いたよ!」をたくさんキャラクターたちがやっているんだが、これが上映されいろんな人に見られることで、それがネットなどで声に出されることで、制作陣にまた「ここにいるよ!」「届いたよ!」が伝わったら本当に想いの連鎖で輪廻って感じですごくいいよね
そういう輪にできる作品になったらいいよね


以下二回目感想

二回目!よかった~
また泣けてきてしまった
ドロップを思うと切ない

三人で山火事の話をしてるとき、トトお腹痛がってるんだよな……お腹弱いね

二回目だとドロップとトトが喧嘩してトトの気持ちを聞いて慰めるまでのトトの焦りがすごく伝わってきたし、「ドン・グリーズ」というチームに対する「子供っぽくて恥ずかしい、いたたまれない」みたいな感情が如実に表情に出てるな……と思う

ドロップの気持ちを思うと切ないけど、もうあの子は覚悟を決めている子なので、そんなに二回目で印象は変わらなかったな
芯がある子なんだよな……

「どんぐりころころどんぐりこ」じゃなくて「どんぐりころころどんぶりこ」 だった
間違いだらけだ
でもやっぱその話をする前に滝に落ちるので、三人がその時点では「どんぐりーズ」であることの示唆だと思うんだよな~

ドロップだけでなく、チボリも、詞のようなセリフがもう少し話し言葉になってたら受け入れられやすかったのかな

山んなかに来たときのトトのカバンのなか、参考書だけじゃなくトイレットペーパーも入ってる!

ロウマとトトがアイスランドに来たときのキックスケーターがドロップのものなのだと思うと本当に三人で来たんだという感じでうれしいね……

「15歳最後の勇姿を見届ける」という言葉、三回出てくるんだな
一回目はトト、二回目はロウマ、三回目はドロップの書き残し

三人で競争するところ、ドロップの背中をロウマが掴めないところでもドロップの未来を示唆している……

71号線の看板があった気がしてたけどなかった 一回目は幻覚を見たのかもしれない

この映画、そこかしこに伏線やメタファーが散りばめられていて本当にすごい
他の方の感想で見たんだけど、ロウマが秘密基地を壊すシーンで時計を壊すの、「止まっていた時間が動き出す」演出で「少年時代の終わり」なんだな……
そしてやはり秘密基地を燃すのは同じく「ドン・グリーズからの卒業」であり「ロウマとトトふたりだけのドロップの火葬」なんだ

エンディングでドロップが右から来るところで泣いてしまう
一回目も泣いた
曲がまたやさしいんだわ……
ロウマとトト、ふたりは永遠にドロップに勝つことはできないのだ……
作中でもそうだし、EDでもロウマとトトはドロップに追い付けない
それでもEDでは左から右に飛行機が飛んでいくからよ……最高だぜ……


以下二回目見て気づいたことなど

トトに「ロウマは遠くには行かねぇよ、東京の高校一緒に受けようって言ったときもそうだった」と言われたロウマが、トトと一緒とはいえ世界へ飛び出し、アイスランドまでいき、「なんだ、近いじゃないか」みたいなことを思うまでの話なんだなこれ
だからロウマ視点でロウマの一人称なんだ……

入場特典の小説を読みました
そっかぁ、プールにも一緒に行ったんだ
よかったねぇ

しかしドロップ、ふたりにたくさんの夢の種を撒いていったなぁ!
きっとトトは小児科医になるんじゃないかな
ドロップみたいな子をたくさん助けてあげてよ
ふわふわしていたロウマもちゃんと夢が見つかって進もうとしていてえらいな
その手でたくさんの種を撒いて、野菜を育てて、未来へ繋げていって欲しい
やっぱり、わだちというか、足跡を残すことなんだよな……
生きるということは、灯台をたてるということ
未来へ繋ぎ、いつかそこへ来る人のためになにかを残すこと
ドロップはたくさんのことをロウマとトトに教えてくれて、そしてこれからもふたりにたくさんのことを思い出させてくれるのだろう
いなくなっても、いなくならない
ちゃんとふたりのなかで生きているね
ドロップがいた証を、ふたりが証明してくれている
三人はいつまでも親友だね

「一生お前に勝てねぇよ」が好き

ドングリーズ、本当に計算されて演出がなされた映画だと思うし同じくらい感情で押しきる映画でもある

トト、自分がお腹が弱いことを悪いことだとは思っていないっぽく、自分のあだ名がTOTOから来ていることも普通に受け入れており、ラインのアイコンにしてる辺りでも気に入ってるんだろうなと思われるのだが、なんというか、「弱さ」を「弱さ」だと思わないスタイルというか、弱さをそのまま受け入れてある種のアイデンティティにしてしまうというか、「それも自分だ」とちゃんとなにもてらわず自然に言えることは、「今」の男の子の在り方として(男の子だけではないかもしれないが)強いし、そうであれるといいねという時代になっている気がするな

ビジュアルガイドに書いてあったんだけど、トトのあの子供用の自転車、お姉ちゃんとか家の自転車使っちゃうと困るだろうな、って気を遣ってあれを選んで乗ってきたらしいんだよね……
気遣いのできるいい男なのだ。って書いてあったけど本当にそうなんだよね
誰よりもいろんなことを気にしちゃうから色々考えてひとりで背負ってしまうタイプなのかな

ぜんぜん関係ないけどクマに会ったときに三人揃って威嚇のポーズするの、ビジュアルガイドに「「熊と遭遇したときは大きな動物のフリをする」というふわっとした知識から咄嗟に出たポーズ。」って書いてあってあまりにもかわいい
裏表紙のポイント絵にも使われててあまりにもかわいい
ここでは三人の思考や視点が揃ったのね……

わたしは自分がドングリーズを受け取れたことがとてもうれしいんですよね
「見つけてくれてありがとう」と「そこにいたんだね」が同時にやってきた感じがしてて
自分がドングリーズという作品を受け取れる土壌にあったこと、ドングリーズという作品に自分の大切にしているものを見つけられたことがとてもうれしいんですよね
でもわたしの力だけでは気づけなかったメッセージも多くありくやしい
自力で見つけたかったな

最後の電話、しらないひとからのものだったら未来へ繋ぐ感じでいいなと思っていたのだが、でもロウマとトトのふたりがアイスランドに来てくれたこととか自分に影響うけてヘアドネーションしてくれたこととか自分のキックスケーターも連れてってくれたこととかがうれしくなって、ついドロップが“向こう側”からかけてきちゃったでもかわいいなぁ!と思った

それはそれとしてロウマとトトのヘアドネーション、これも、ドロップに影響うけてのドロップへのメッセージでもありながら、これからその髪を受けとる知らない人たちへのバトン、「繋いでいくこと」なんだなと気づいてどひゃ~となってしまった
すべてがうつくしすぎる……


たぶんまた見にいくので追記します

喜多見柚というアイドルについての記述

喜多見柚に対する感情は、一言では言い表せない。
これは、恐らく最後のラブレターであり、懺悔である。
とても長くなりそうなので、こういったものを読みたくない方はすぐにブラウザバックをお願い致します。
なお、この文章に対する批判などは一切受け付けませんのでよろしくお願いします。



私は2013年からアイドルマスターシンデレラガールズをプレイしている。(ちょうど、「SR+[オオカミガール]高槻やよい」がバレンタインキャンペーン第2弾の特典として登場した頃)

当初は普通に遊んでいた。前川みく高森藍子輿水幸子などをメインにプロデュースしていた気がする。
柚のことは、「なんか前髪ぱっつんのかわいい子がいるな~」くらいに思っていた。

転機は確か、お転婆☆ひな娘かハロウィンヴァンパイアだった。
何でそれを見つけたのかは忘れてしまった。
けれど、誰から見ても美少女、というわけではないのに、絶妙に愛嬌のある黄金比率な顔立ちのかわいさや、そのリアルな性格も合間って、私は彼女に夢中になった。


楽しいことが大好きで、好奇心が強いのに、どこか臆病で、自分よりもすごい人がたくさんいることを知っているから、後込みして、自分よりも強い情熱を持った他の人に譲ってしまう。
自分が決して一番にはなれないことを、知っている。その程度の聡明さがちゃんとある。
自分の身分相応さを誰よりも知っていて、だからこそ、自分のできることで、自分に相応なレベルで、楽しい物事を追い求める。
彼女は、一番になれなくてもいい、と言う。
なんて生っぽいんだ、と思った。
その等身大さの、そのリアリティの、その掴みきれない曖昧な輪郭が、私にはあまりにも、自分のことのように思えて仕方なかった。
日に日に、見れば見るほど、柚のことを大好きになった。

当時、彼女の身長体重などのプロフィールがぶっちぎりでアイドルマスターシリーズ平均値ど真ん中であったこと、カードの出番や機会に恵まれないことが多い、絶妙にタイミングが悪いなどといった不憫さも、さらに彼女を好きになる一因となった。

細かく思い出せないので割愛するが、Nからホップステップサマー、桃園花娘あたりまでは、本当に柚が好きだった。



デレステリリース時に喜多見柚は実装されておらず、今か今かと心待ちにし、喜多見柚のNが実装された日はバスのなかで本当に歓喜したことを覚えている。

モバマスの方で柚の新規カードが出れば出るほど、瞳が大きくなっていわゆる誰から見ても美少女のような顔立ちになっていっていくことが不満だったため、デレステの喜多見柚モデルは理想を射抜いていた。

瞳がまんまるで大きすぎず、顔面の中心に鼻がちょんとある、「誰から見ても美少女とは言えないが普通にかわいい女の子」の顔立ちに、平均値と言われても納得する、バランスのいいスタイル。
うれしかった。本当にかわいい。
ひたすらスクショした。柚がいれば楽しかった。
デレステのメモリアルコミュも(少なくとも4までは)、私が“視ていた”通りの柚で、本当に信用に足ると思った。
ずっと、このまま、少女のままのアイドルとして、近くも遠くもない触れられそうな場所に、ふっと立ってくれているのだと、心からそう信じていた。



違和感はあった。
前述した通り、モバマスで新規カードが出れば出るほど、初期と顔が違ってきていること、また、ひらめき☆アンサーあたりから、やたら“かるい”イメージのセリフばかりになってきていたことも。
けれど、デレステの柚コミュが個人的にパーフェクトだったことや、恒常SSRも衣装はともかく(モバのフレンズホリデーにて、「お、きた!柚にもフリフリの!これは美少女のフリしちゃってもいいってことカナ?よし、引き受けようっ。前からやってみたかったんだー。こうかな?それとも…こう?へへっ、イイかも」、「柚さ、昔から、目立ちたがる子じゃなかったんだ。でも、Pサンが望むなら、フリフリにも慣れないと。ちょっとずつアイドルっ」というセリフから感じる、その絶妙な「かわいい女の子」への居心地の悪さのようなものが、“少女のままアイドルとしてそこにいる喜多見柚”としてとてつもなくしっくり来たため、喜多見柚には最初からかわいいスカートドレスの衣装を着せてほしかった)(この辺りは限定SSRにて回収されたものの、やはり最初からそうしてほしかったという気持ちは拭えない)、コミュはパーフェクトだったこと、総選挙のコメントが第三回はとてもらしかったのに第四回になって「らしくないな?」と思ったところに第五回の総選挙のコメントにらしさが戻ってきていたことを踏まえて、私は思い込もうとしていた。
変わらないのだと。柚だけは、そのままでいてくれるのだと。


けれど、第六回の総選挙コメで、違和感を感じていた軽薄さがいっぺんに倍増しになった。

それでも、柚に入れた。


総選挙の後のことはもうおぼろげにしか覚えていないけれど、まだ、あの子が5位になったと知ったときは、うれしかった気がする。
5年も担当してきた、隣で見てきた女の子が、CDデビューできることは、純粋にうれしかったのだ。

けれど、彼女についた声は、私の“聞いていた”喜多見柚の声とは、全く違っていた。


あのこに声がついた瞬間のことはよく覚えている。
ボイスマークを押して、セリフを、声を聞いた瞬間、「この子は誰だ?」と思ったのだ。
この子は、本当に、今まで向き合ってきた、今まで5年も隣で共に歩いてきた女の子なのか?
違和感しかなかった。
柚ではない、でも、合わない、でもなく、「この子は誰だ?」としか思えなかった。

ボイスマークを見るのもいやになった。


柚のSSRが出て、声がついて、限定SSRを引いた後、5年ほどお世話になったモバの嫁プロを私はひっそりと退社し、別の放置嫁プロに移った。
もう、喜多見柚の声や、今後の活躍を、喜んだり、彼女のために競ったりする気にはなれなかったからだ。
喜んでおられる他のPさんに対して、喜べない私は、存在するだけで水を差してしまっているような気がした。
それでも、他の嫁プロに移ってしまうこと、アイドルマスターシンデレラガールズを完全に引退することができないことが、私のだらしなさであり、弱さなのだろう。




少年ハリウッドという、アイドルの概念を私に教えてくれたアニメのなかに、こんなセリフがある。


『アイドルってね、あるものもないものも、すべてを求められてしまう存在なんですよ。
恋人になってほしい 家族になってほしい 慰めてほしい 元気にしてほしい かっこよくあってほしい 可愛くあってほしい 素を見せてほしい 見せないでほしい そばにいてほしい 遠い存在であってほしい 自分だけのもので 皆のもの
もう、すべてのつじつまが合わなくなってくるほど 求められて求められて、求められる存在なんです。
そのすべてに答える方法はただひとつ 全部を出すことです』


まさにこのセリフの通り、私にとって喜多見柚は、担当であると同時に、ファンであり、憧れであり、親友のようであり、姉妹のようであり、恋人のようであり、写し鏡のようであり、あまりにも理想の少女だった。
はたから見ればつじつまが合わないと思われてしまうのだろうと予想がつくほど、私は彼女にすべてを見い出していた。
アイドルは、偶像は神さまだとも言うけれど、間違いなく、あのこは私の神さまだった。
みんなのものでありながら、誰のものでもなく、そして、誰よりも私のそばにいてくれる、あまりにも近く、けれど永遠に手の届かない、とてもうつくしい、不完全だからこそ完全な、少女のかたちをした偶像だった。

アイドルだった。

私にとって、他の誰よりも、あまりにも彼女はアイドルだったのだ。
そして、いつしか、私のなかで、彼女は完全に概念にすらなってしまっていた。
概念の死は、永遠の始まりだろうか。
けれど、彼女の形をした、彼女だとは思えないものが、まだそこにいるのだ。
もうどうすればいいのかわからなかった。

喜多見柚ちゃんは、私にとって、すべてを見せてくれる、夢のような女の子だった(「だった」、と過去形で言わなければならないことが、未だに悲しくて仕方ない)。
あまりにもすべてを持っていて、あまりにもすべてが透明だった。
等身大でいながら、私がなりたかった姿を、全部叶えてくれたようだった。


私も、柚みたいになりたかった。
「普通の子」を自称し、伸びるスピードもゆっくりで、ちょっと臆病で、自信がなくて、誰かよりも後ろに下がりがちで、自分が前に出るよりも誰かのフォローが得意で、照れ屋さんで、ちょっぴりめんどくさがりで、ずるいところもあって、けれどもそんな下手すればネガティブなところにも矛盾することなく、いつも他人の邪魔にならない程度にマイペースでいて、楽しいことが大好きで、いつも楽しいことを探そうと目をきらきらさせて動き、自分だけでなく周りも楽しくさせるような、そんな、あなたみたいになりたかった。


あなたは、私の憧れだった。
あなたならばこんなときどうするだろう、どう思うだろうと、何度考えたか知れない。


跳ねすぎず暗すぎない、お茶目で無邪気でちょっぴり遠慮がちな喋り方をして、その辺にいそうな、しかしとてつもなく唯一無二のやわらかい雰囲気を纏い、生っぽくコケティッシュに笑っている、“少女”の柚が大好きだった。


その生っぽさを、彼女は失くしてしまったように思う。
不完全だからこそ完全だったのに、完全な、誰から見ても、ただの「アイドル」になってしまった。
私が見ていた「少女」の柚は、もうそこにはいなかった。


私は、喜多見柚は、誰にでもなれる可能性があり、そして、誰にでも、喜多見柚のようになる可能性があると思っていた。
そのくらい、透明な女の子だったのだ。
誰の心のなかにも喜多見柚のような片鱗があり、誰しも臆病になったり楽しいことに身を任せてふらふらしたり、そういうところがあると思っている。
だからこそ、喜多見柚というのは、見る人間の鏡のような少女だったのだと思う。
自分の中にあるそういった、中途半端で生っぽく、なんとなくいやだけれどきらいになりきれないような、苦笑しながら「しょうがないな」と付き合っていくような、むず痒いようなくすぐったいような、そういう要素を、誰しも持っていて、誰しも人の数だけあるそれを、喜多見柚に見る可能性がある。
だからこそ、シンデレラガールズの中でも屈指の、「見る人間によってイメージががらりと変わる少女」だと思っていた。
見る人間の数だけ“喜多見柚”がいて、見る人間の内部を写すようにして、それこそ水鏡のような透明さで、彼女はそこにいる。
見た人間の姿を映し、見る人間の色に染まるけれど、水は水で、掴もうとしても掴めない。どんな姿に変わっても、どんな色に染まっても、水のようにいつでもありのまま、透明にそこにいるような。喜多見柚はそんな女の子だと、そう思っていた。


しかし、いつの間にか、そうではなくなってしまっていた。
私のよく知っている、私の大好きな少女は、気がつけば、もうどこにもいなかった。


私には夢があった。
「喜多見柚を、前代未聞で唯一無二の、無ボイスのままのシンデレラガールにすること」だ。


誰にも本当には勝つことができない、誰かを抜かして一番にはなることはできないとどこかで自分の相応さを悟っている彼女が、その透明さのままでそこに立ったとき、その景色を見たとき、どんな表情をするのか、どんなことを言ってくれるのか、私は知りたくてたまらなかった。
そんな彼女が一番に選ばれたとき、どうなるのか知りたかった。


思えば私は、現実世界ではそうそう叶うことのない、中途半端で身分相応さを知っている者が一番になる、ということを、夢見ていたのかもしれなかった。
私には絶対にできないことが、私に似た二次元の女の子なら成し得られるかもしれない可能性に、奇跡に、賭けていたのかもしれない。
彼女を自分のように思うあまり、彼女に私の夢を、覆い被せていたのかもしれなかった。


けれど、それはもう叶うことはないのだ。
私の“柚”は、喪われたのだから。



声を得ることでなんらかのものをうしなう、ということは、未ボイスのアイドルすべてに降りかかる可能性のあることだと思う。
声の高さや質がイメージと違う、喋り方がイメージと違う、歌がイメージと違う、それらだけでなく、声がついたことで公式の方向性のイメージが固まってしまい、それまで見えていたものが「見えなくなる」なんてこともあり得る(もちろん、それまで見えなかったものが見えるようになる、見えてしまうことや、それまでなかったものが付与されてしまう場合もある)。
我々が目にするその瞬間のアイドルは、その瞬間にしかいない。
二次元だからといって変わらないなんていうことはない。
むしろ、二次元だからこそ、我々が望まぬ方向へ、便利で都合のいいただのいい子ちゃんへ向かってしまう可能性も大きい。


私のアイドルは、私だけのものだったけれど、彼女は、彼女たちは、刻一刻と変わっていた。
私が思うよりも、ずっとはるかとおくへ。



私は喜多見柚に関する一連のことで、一時期本当にめちゃくちゃになった。
前兆はあったにせよ、唐突に公式の喜多見柚が、私の知らない喜多見柚になってしまったことが、あまりにもかなしくて、涙もでないことがショックでたまらなかった。
忘れもしない。あのこの、私の知るあのこではない、知らない女の子の声を聞いたときのこと。胸のどこかがスッと冷めて、ひどくもやもやしたものでいっぱいになってしまったこと。
声優さんを責める気持ちは一切ない。あの声のあのこを、声がついてから変わってしまったと私が勝手に感じている、私の知らない彼女のことを、以前と同じ「喜多見柚」として変わらず愛するひとのこと、新しく好きになってくれた誰かのことを、貶める気持ちも一切ない。
ただ、わかりあえないだろうな、とは思う。
そして、わかりあえないことを責めたりはしたくないので、わかりあえないだろうな、と思っている人間のことを、責めないでほしかった。
運営に(ほぼ、デレステの方に)文句がないと言えば嘘になるが、公式に問い合わせなどの方法で何かを言えるほど今の私はアイドルのプロデュースをしていないので、何も言えることはない。
あのこが死んでから(あえてこういった表現をすることをお許しください)、もう一年も経ってしまった。

あれから、いろんなことがあった。
三ヶ月以上経ってなおTwitterで喚いている私に、「あなたがしていることはただの粘着である」「毒親みたい、彼女がかわいそう」などと言われたこともある。
しかし、大好きだった誰かが変わってしまったことを嘆くことは、そんなに悪いことなのだろうか。
私はほとんど誰にも直接言っていない。リプもしていないし、公式に凸ったわけでもない。自分のTLで、ひたすらひとりで嘆いていただけだ。
ただ苦しい辛いどうしてと嘆いているだけなのに、何故そんなことを言われなければならないのか、今でもわからない。
離れればいいのにと言われた。だが、離れるか離れないかを決めるのは誰かではなく、私だ。
何故そんなことを指図されなければならないのか、わからなかった。

ずっと苦しかった。離れられない、嫌いになれない、でも好きだと以前のように胸を張ることもできない、そんな自分がいやでたまらなかった。
「好きだ」が「好きだった」に変わってしまうこと、変わりたくないのに変わってしまいそうなこと、それが、どうしようもなく悲しくてたまらなかった。今でも、まだ、悲しい。
けれど、それさえも、彼女がくれたものだと思うと、いとしくさえあるような気がする。
もういないのに、それでもまだ、そこにいてくれるような気がしてしまう。
そのくらい、あのこに対する気持ちは、もう一言では言い表せない。
きらいになんてなれない。
大好きだなんて言えない。
愛してるよ。


スターライトステージの話をしよう。
「ビギナーズ」、という名を与えられた、柚と同期でボイスがついた5人のユニット。
「ビギナーズ」とは、何なのだろうか。
彼女らは今までもアイドルとして、他のメインで取り上げられる機会の多い子や、遥か前からボイスつきの子と同じように、ずっと活動してきたはずだ。
もちろん、モバマスデレステの時間軸は違う、ifである、という考え方もよくわかる(別物なんだから素直に楽しめよと散々議論されたことだ)。
けれど、ここで、あまりにも如実に、現実を突きつけられたようだった。
彼女たちは─厳密に言うと「ボイスのないアイドル」、「ボイスがついたばかりのアイドル」は─他のメインで取り上げられる機会の多い子や、遥か前からボイスつきの子と、同じラインにすら立てていなかったらしいということ。
どういうことだ。
どうしてなのか。
そりゃあ、イベントや曲など、「経験していないこと」の差はあるだろう。
でも、イベントや曲などの「ユーザーの目に多く触れる機会」以外で、彼女らはそれぞれに、アイドルとして、向こう側の世界のファンに、アプローチしてきたのではないのか。
そう信じていたのに、彼女たちは「ビギナーズ」だそうだ。
何故?
当時はそこについて思うのみで、コミュのひどさよりもその点への不可解さと不快感と納得のできなさの方が上回っていた。
(コミュもまた特に柚とエンドがひどいのだが、あの流れで柚のコミュがああなること、エンドがああなることは、なんというか、ある意味最悪の結果としてなんとなく予想できてしまったので言うほど憤慨はしなかった。)
割りきれよ、そういうものだと思って楽しんだ方がいいよ、と、当時散々議論されたことではあるが、私は納得できないし、納得できないことを何故責められなければいけないのかわからない。
「公式の出してくるもの」を全肯定するのがプロデューサーなのか?ファンなのか?
少なくとも、納得できない、ということをツイッターで言っているのみなのに、赤の他人に責められ、「また厄介だよ」と嘲笑される筋合いはないはずだ。
「楽しめばいいじゃん」「楽しんだ方が得だよ」「いやならやめれば」などと言うが、そんなことはわかっている。
楽しめない、納得できない、という感情の問題の話をしているのだ。
彼女たちの、モバマスを含まずとも、デレステのみのコミュなどでそれぞれに重ねてきたはずの時間を、すべて棒に振られたような気さえしたのに。


少し落ち着いた今、既存の、主にデレステに実装されている全タイプ曲を中心に、ゲームに触れずに聞き返している。
私は、彼女たちに─喜多見柚に、“そこ”に混ざってほしかった。
けれど、確信してしまった。
彼女は、“そこ”に混ざることはできないのだと。
例えば、ススメオトメや、そういった「みんなで歌っているはずの曲」にさえ、彼女は、混ざることができないのだと。
彼女は、ボイス未実装あるいはボイスがついたばかりのアイドルは、その歌詞の示す「みんな」の中に、入れてすらいない。
アニメにも出たような子達によって歌われるきらびやかで華やかな「みんなで立つステージ」に、彼女はいないのだ。

私が夢見ていたのは、こんな現実ではなかった。


alwaysについての話もしておこうと思う。
With Love内に入っている(何故この曲もイベントのメイン曲だったのに恋が咲く季節のカップリングだったというだけで他のイベント曲のカップリングにされなければならないのか納得はいかない)イベントverのalwaysを聞いた。
イベント当初、「どうして恋が咲く季節ではなく、alwaysの方を総選挙上位での報酬曲のメインにしてくれなかったのか」とずっと思っていたが、今もそう思う。
そのくらい、今まで未ボイスでデレステで上位になったことがなかった彼女たちには、初めて歌う歌としてこれ以上ないほどぴったりの曲だと思うのだ(喜多見柚担としては贅沢を言えば二番にある冬パートを柚に歌わせてほしかったが)。

逆にいうと、高垣楓本田未央がこれを歌うことに特に意味を見いだせない。アニメでもメインで取り上げられた彼女らがこれを歌うことは、「今更」以外の何物でもなく、皮肉ですらあると思うからだ。


二番に、「これからも一緒に歩いてくれたら どこまでも」という詞がある。
しかし、彼女たちの歌う「これから」とは、いったいどこなのだろうか。
彼女たちはいったい、どこへ向かうつもりなのだろうか。
こんなことを言うのは野暮ではあるが、このalwaysを歌う五人は(恋が咲く季節に入っているverのalwaysを本家とは認めないものとする、理由は前述の通りである)、今後、「シンデレラガール」に輝くことはないだろう、と思う。
今回のこの総選挙の結果だって、声をつけるためのブーストとしてランクインしたようなものだろう。
しかし、「ボイス」がついてしまった今、実質、彼女たちにはもうどこにも向かう場所がないのではないだろうか。
もちろん、「シンデレラガールズ」というゲームとして、「シンデレラガール」になることが目的のひとつであることは承知の上だ。
けれど、「シンデレラガール総選挙」が実質人気投票であり、人気はもうすでにアニメ組を中心としたメンツに偏っていること、また、いつの間にかそうなってしまった結果としての「シンデレラガール総選挙」のもうひとつの「ボイスをつける」などという目標を果たしてしまった今、もう実質彼女たちは袋小路である。
彼女たちが行く場所は、もうどこにもないのではないか。

alwaysを聞いて、「もう二度と、私は“私の”喜多見柚に会うことはできないのだ、もう永遠にあの子と会うことはできないのだ」と思い知ると同時に、柚だけでなく、同期で声がついた他の四人に、不毛ではあるが、そんなことを思わずにはいられなかった。


二次元キャラにそんなに入れ込んで、と言われてしまうかもしれない。
たかがキャラでしょ、二次元でしょ、つくりものでしょ。
たかがカード、たかがキャラクター、たかがソシャゲ。
その通りだ。
声がついたくらいで、公式と解釈が違ったくらいで担当を辞めるなんて、そんなものは本当の愛じゃない。
そんなに嫌なら離れればいいじゃん。
そうかもしれない。
でも、だからなんなのだ。
私にはあのこが唯一だったことは、覆しようもない事実なのだ。
誰がなんと言おうと、あのこは私には完璧なアイドルだった。
確かに、そこにいてくれた。
例えそれが私がつくりだした万能の幻だったとしても、私は、確かに実在した、あのこのことを愛していた。
あんな女の子にはもう二度と出逢えない。
もしかしたらこの先、彼女よりももっと好きになるなにかがあるかもしれない。
彼女と同じくらい、もしくはそれ以上に夢中になって、また心を壊したりするかもしれない。同じ過ちを懲りずにまた繰り返すかもしれない。
それでも、あんな女の子にはもう二度と出逢えない。

私にとって喜多見柚とは、シンデレラガールズそのものだった。あのこがいたから、シンデレラガールズが好きだった。
あのこが死んではじめて、そのことに気づいた。


死ぬということは、概念になることだと思う。
元々、少女という生を孕んだまま、アイドルという神さまのような存在として概念をまとって輝きのなかに立っていた彼女が、死んでなお概念になったということを、ずっとどう受け止めていいのかわからなかったが、彼女が死神になったのだと思うと腑に落ちた(現柚Pの皆さま、あなたの担当アイドルにこんな表現をしてしまい申し訳ございません)。


彼女は生まれ変わったのだろう。
これからも、あるいはこれからは、たくさんのひとにもっともっと愛される、素敵な「アイドル」になるのだろう。
たとえそれが私の見ていた、私の知っていた彼女ではないとしても。
私はもうきっとあなたのプロデューサーではいられないけれど、それでも、輝いていたあなたを、私は決して忘れない。
大好きだった。
ありがとう。
あなたを愛せた5年間、私はとてもしあわせだった。
まだしばらくの間、デレマスもデレステもアンインストールできずに、Twitterでぐだぐだ言ってしまうかもしれないけど、もうすこしだけ許してね。
だめなプロデューサーでごめんなさい。あなたのことを、コンテンツが終わる最後まで、どんなに変わっても愛していると言ってあげられなくて、本当にかなしい。

何度生まれ変わってもまた、きっとあなたのことを、私は性懲りもなく好きになるだろう。
あなたが、私にとって知らない女の子になっても、だからこそ、私はあなたのことを愛したことを、後悔するつもりはない。
5年間、私はずっとあなたのとりこだった。


こうして彼女についての文章を書けるほど彼女に対する気持ちが落ち着いてきたことが、ブログを書くことで彼女から本当に離れようとしていることが、自分でも悲しくてしかたがない。
ここ一年で、次第に、どんな感情であれ、彼女を想うことが減ってきたことも。
こうやって彼女への重い重い感情を次第に忘れて、私はこれからも生きていくのだろう。
生きていけてしまうのだろう。
それがどんなに健全なことなのかわかっていても、それがあまりに悲しく、淋しくて仕方がないのだ。
それを依存だと言われても、それでも、悲しいものは悲しいし、淋しいものは淋しい。
私の知っていた彼女を返してくれなどと言うつもりはない。
ただ、そういうプロデューサーがいたのだということを、すこしでも知っていただければ幸いである。


2018年8月22日、モバデレの方で喜多見柚上位イベが始まった。
私はまだ、あの子のことを、忘れられないままでいる。
まだ、もうすこし、見守っていたいような気持ちでいる。
確かに、以前の彼女とは明確に“違う”と思う(かつての彼女ならば「オッケー」などと軽い言葉を何度も使ったりはしなかったように思う)。
けれど、わずかに、かすかに、時折匂わせる以前の彼女の気配が、どうしてもそこにあるかもしれない、と、確認したくなってしまうのだ。


2018年9月24日、やっと、デレマスでの現状の喜多見柚の全カードのレベルと親愛度をMAXにした。
ひとつの区切りだと思う。
やはり、ドキドキ☆カフェ気分(ウキウキ☆カフェ気分)を除くひらめき☆アンサー以降のカードは、なんとなく“違う”感じがする。
もう、戻ってはくれないのかもしれない。
これから先はずっと、あんな感じの柚が、柚として認識されるのだろう。
もう私は、“あんな感じの柚”を、「喜多見柚」として認識することができない。
あの子は誰なのか、誰か教えてはくれないか。


私の好きだった喜多見柚は、いまどこで何をしていて、どんな気持ちでいるのだろう。
しあわせだったらいいのに。
私にそう言ってくれたように、楽しいと笑っていてくれるなら、あなたがどこにいても、文句なんてないのだから。



■追記(2018/9/27)

こんなにもいろんな人に読んでいただき、こっそりRT先を覗きに行くなどして(矮小ですみません)いろんな人のアイドルに対する感情を見ることができて、それの発端が(私の感情ありきだとしても)柚だということが、本当にうれしいです。ありがとうございます。

声については、声がついて「この子は誰だ?」と思ったこともそうですが、「喜多見柚に声がついたこと」よりも、「声優さんの名前」の方でバズってしまったことが本当にショックだったことを思い出したので、追記として書かせていただきます。
「喜多見柚というアイドルに声がついたこと」よりも、その声優さんの名前の方に注目が集まってしまったことが、どうしようもないことですが、不甲斐なくて、柚が可哀想でたまりませんでした。
声優さんは悪くないし、誰も悪くないのですが、「そんなことで唯一無二にならなくてもいいのに」「こんなところでまで柚は不憫でなければならないのか」と、本当に悔しかった。


私は、喜多見柚というアイドルに、ただ絶賛されて持て囃されるだけのアイドルではなく、いろんな人の感情を、人生を、時間を、ありとあらゆる意味で揺さぶれるような存在になってほしかったので、こうしてたくさんの人にこの文章を読んでいただけることが本当にうれしいです。
柚のことに言及していただけるのもうれしく、自分の担当について、あるいは、アイドル観や「アイドルマスター」というゲームに対する在り方を振り返っていただけるのもうれしく、いい文章とかエモい文章とか言っていただけるのも素直にうれしく、また、何よりも、いろんな感情を目の当たりにすることができて、その中心に柚がいることが、本当にうれしいです。ありがとうございます。

けれど、本当にうれしいと同時に、私が彼女にたくさんのものをもらったのと同じくらい、あるいはすこしでも、喜多見柚というアイドルに、あるいは、喜多見柚という少女に、私はなにかあげられていたかな、とつくづく思います。
二次元の存在に等価交換などというのは恐れ多く不可能なことですが、それでも、あのこになにかあげられていたのか、私なんかが担当でしあわせだったのか、そんなことを考えてしまいます。

もちろん、恐らくは、アイドルマスターシンデレラガールズというゲームのコンセプト上、うれしかった、楽しいよ、プロデューサーさんありがとうと言ってくれるのだろうと思います。
alwaysが、何よりのアンサーです。

けれど、「アイドルマスターシンデレラガールズというゲームのコンセプト」としてではなく、ひとりの少女として、あのこになにかあげられていたか、あのこ自身に問ってみたかった。本当はどう思っていたか、対話をしてみたかったな、と、夢のようなことを思っています。

この文章を読んでなにか感じていただければ、それに勝るものはありません。
どうかこれが、今目の前にいるアイドルのことを、すこしでも何か考えたりするちいさなきっかけになりますように。



■追記2(2018/9/29)

この文章を読んで私が他の柚Pに攻撃されたと思われた方がいらっしゃるかもしれないので、念のため補足しておきます。
私にいろいろと忠告をくださったのは、柚Pの方々ではなく、主にアイマスが主ジャンルではない方です。

柚Pの方々はおだやかで聡明で素敵な方が多く、私が荒れていても何も言わず放っておいてくださったり、SSRが出たとき心配してくださったりして、当時本当にありがたかったです。重ね重ね、お礼申し上げます。

けれどだからこそ、この現状を少ししか、あるいは知らない人間に色々と知ったようなことを言われるのがとても悔しかった。

アイマスだけではなく、これは誰にでも、どんなジャンルにでも起こり得ることではないかと思います。
そういうとき、当事者も周囲も、どういう対応や反応をするのが正しいのか、それは時と場合や人によると思います。正解はわかりません。というか、恐らくないでしょう。

自分が解決したその方法が、他の人にも当てはまるかといえばそうとは限りません。
軽率に「距離をおけば」「やめれば」と言うのは簡単なことですが、思い入れが深ければ深いほど、これほど受け入れがたいこともないことを、上記を踏まえた上で、知っておいていただけると幸いです。



■追記3(2018/9/29)

いくつか、指摘としての「ボイスなしでのシンデレラガールは初代の十時愛梨、第四回の塩見周子が実現済み」というものを拝見しました。
これは単なる私の無知でのミスでした。大変申し訳ありません。

ただ、例えばボイス総選挙などが開催されるようになったり、デレステでボイスがなくてはメインにもなれないような「今の状況」で、喜多見柚という普通のアイドルに無ボイスのままそこを勝ち取ってほしかった、という意味での「唯一無二」と捉えていただけるとありがたいです。


また、「alwaysを歌うのは総選挙を勝ち抜いたからであり、高垣楓本田未央にも十分歌う権利がある」という指摘も見かけました。
「総選挙を勝ち抜いたから」という理由ならば、本当にその通りだと思います。

しかし、アニメでもメインになった高垣楓本田未央には、alwaysのような「プロデューサーとの出逢いを振り替えって感謝する歌」や、恋が咲く季節のようなライトなラブソングではなく、もっとすごい曲、といっては陳腐な表現になってしまいますが、「彼女らが総選挙を勝ち抜いたからこそ歌える曲」を歌ってほしかったのです。

高垣楓本田未央が、はじめてボイスがついた5人と肩を並べて「私を見つけてくれてありがとう」と歌うのは、あまりにも今更で、皮肉がすぎると思うからです。

それをするくらいなら、難しく贅沢なことではありますが、高垣楓本田未央、そして藤原肇、荒木比奈、喜多見柚、また、佐久間まゆ、村上巴、関裕美、この9人が、肩を並べて歌っても違和感のない曲をつくってほしかった、「その時のそのアイドルたちに合った曲」をあげてほしかった、という思いで書きました(そうでなければ、ボイスがついた五人も可哀想ですし、高垣楓本田未央佐久間まゆがあまりにも報われず可哀想だからです)。

誰しも目の前の担当は特別だと知っているのに、未熟な表現で誤解を生んでしまい、申し訳ありません。

すべてのアイドルがそれぞれに輝ける場所があることを信じたいです。

一年経ちましたがいかがお過ごしでしょうか。


はてなブログから「去年のお前こんなん書いとったで」的なメールが来たので、重い腰を上げてなんか書こうと思います。


アイドリッシュセブンの候補生について

相変わらずなんの進展もないですが、相変わらずというか、個人的にはますますアイドリッシュセブンの候補生について考える時間が増えております。

一日の起きている時間の大半アイドリッシュセブンの候補生について考えていると言っても割と過言ではないほどです。

(その割にラビチャ開けも考察もいっこうに進んでいないのは何故…)

候補生推しの方もすこしずつですが増えている(?)ようで、嬉しい限りです。

アイドリッシュセブン、二周年おめでとう!

メイン陣の更なる活躍、そして、どうか候補生にスポットが当たることを切に願って。

そういえばファンブック2にも候補生が載っていたそうで(すみませんまだ買ってません、そのうち買います)、大変嬉しく思います。

候補生のことも忘れないでいてくれてありがとう!!

今年こそ、アプリでも何かしらの動きがあればいいなぁと思います。


・近況

昨年の今日、アイドリッシュセブンの候補生について、色々わめいて記事をしたためたわけですが、実は、昨年の今日は、現在勤めている職場の試験日でした。

電車のなかでアイドリッシュセブンの候補生についての記事をしたためていたわけです。

昨年の今日、アイドリッシュセブン一周年の日に候補生についての記事をしたため、同日に試験日だった職場に受かることができたこと、不思議な運命だと思っております(偶然かもしれませんが)。

願わくば候補生にもう少しスポットが当たればいいなぁと祈らずにはいられません。

というわけで現在、不思議なご縁がありまして、昨年の今日試験を受けた職場にて、ずっとやりたかった希望のお仕事をさせていただいております。

二次元の、フィクションに関わるお仕事です。

ずっとやりたかった希望の仕事は、というか現在の職場は、想像していたよりはるかに待遇と空気感が良く、そして、想像していたよりはるかに大変で、非常にやりがいを感じております。

ありがたいことに「眠かったら寝ていいよ!」という感じの職場なので非常に助かってはおりますが、やはりというか、いの一番に「こいつぁ寝太郎だ」というポジションに落ち着きました。

(まぁ何がよくなかったかって〆切あと数時間ってとこでめちゃくちゃに寝て〆切をブッチしまくってしまったからなのですが…反省します)

(でも一回仮眠とったら起きられないんだよ!!)



なんだか仕事がやたら忙しく(そういう時期なので仕方ないのですが)、「アイナナ候補生についてなんだか四六時中考えている」「相変わらず仕事しながら寝ている」以外に目立ったなにがしかはないのですが、とりあえず一年たちましたね、ということで。


アイドリッシュセブンの候補生が今年こそよりよく活躍の場を得られますように!!



アイドリッシュセブンの候補生のよくねむる彼を推す理由

アイドリッシュセブンというコンテンツの候補生という(不本意ですがほぼサブというかモブ)枠において、よく眠り遅刻を繰り返してしまう寝坊常習犯で、そのことを気にしている由良ねむるくんという男の子がいて、彼が大変かわいい、推せるという話を先日しました。 


今回は、「どうしてわたしが由良ねむるくんにこんなに惹かれるのか」という話をします。



わたしの話をします。

わたしは特発性過眠症です。


わたしが彼に出逢ったのは、それが原因で仕事をやめ、半年ほどごろごろとニートをしていたその真っ只中のときでした。


当時、「こんなに毎日死ぬほど眠くて毎日死ぬほど寝ている人間に出来る仕事などないのではないか、つーか毎日こんなに寝ていて何も成せていない時点で死んでいるのと大して変わらないのではないか、むしろ生きているだけで金を食い潰しているのだからヘタに死んでいるより明らかに害悪なのではないか、いっそ死にたい、いやでも死ぬのもそれはそれで金がかかるらしいしもう全部めんどくさいアホらしい」という、今思うと「いやお前それ半分鬱じゃね?」みたいな無限ループを繰り返しながら気がついたら寝ているという不毛な日々を送っており、元々好きで色々と遊んでいたアイドルゲームに一日の覚醒時間をほぼ当てるというニートの鏡かよみたいな時間の使い方をしていたのですが、そんな時、とりあえず育成していた候補生の中に偶然いたのが、由良ねむるくんでした。


救われてしまったんだよ。


二次元の、しかもわたしが偶然ズボッているアイドルというコンテンツジャンルに、彼のような子がいること。

アイドルという輝かしい世界観の中で、それでも「起きられないのはしんどい、それを責められるのはとてもつらい」と、他の人から見れば「そっか大変だね」で済む範囲で、それでも当人からしたら切実であろうマイナス面を、きちんと描いてくれたこと。

候補生というメタ的に見ると絶対にメインの彼らを越えることができない立場にいて、致命的な欠点を抱えてなお、落ち込んだり悩んだりしながら、それでも頑張ろうとしている彼の姿。

救われてしまったんだ。


彼のラビチャを初めて読んだとき、わたしはTwitterでひとりでキレまくっていました。

どうして、睡眠障害の、よりによって眠りすぎるような子を、よりによって候補生なんかにするんだと、一体どれだけこの子がつらいか考えたことがあるのかと、本気でキレ散らかしていました。

今でも考えると切ないです。

それでも、キレながらも、悲しくて切なくて苦しくて仕方がないながらも、わたしはそれらのすべてに、うっかり共感し、癒されて、救われてしまったのでした。

わかるからです。

眠りすぎてつらいことや、それを自分ではどうにもできないこと、自分ではどうにもできないことで他人から責められたり軽んじて見られたりすること、そのせいで歯痒くつらい思いをすること、どうにかしたくてもどうしようもなくて、どんどん自信がなくなって、どう振る舞っていいかわからなくなっていくことも。

全部つらい。わかるよ。

由良ねむるくんという17歳の男の子が、リアルタイムで感じているであろうつらさの一片が、わたしにはわかる。

わたしも当事者だからです。


しかも、由良ねむるくんはアイドルです。

ただのアイドルであったならまだよかった。

候補生です。メインにはなれません。

人の手でつくられたキャラクターであり、アイドリッシュセブンというコンテンツにサブキャラクターという立場として配置された時点で、もうそれは運命付けられています。

今後、公式がもしも候補生にスポットを当ててくれたとしても、メインよりも大きなトップアイドルになれることは恐らくないでしょう。

彼がいくら向こう側の次元で、作中の隅っこで理不尽な現実と闘って、どんなに足掻き抗い頑張ろうとしている、頑張っているとしても、「アイドリッシュセブン」というコンテンツにおいて、彼が主人公になることはできない。

彼はそれを知らない。

外側から見ているわたしたちだけが、彼が抗っている現実以上に理不尽な、その事実を知っています。

つらいね。

でもそれが現実なんだ。

そして、そういったメタ的なものも含めた、彼をとりまくそれらすべての理不尽に、そのしんどさに、どうしようもなく寄り添いたくなってしまったのです。誰がなんと言ったって構わないと思うほど。

もしも彼が候補生ではなくメインキャラクターであったなら、わたしはこんなに彼を贔屓していなかったかもしれません。

それだけ、「メインには叶わない候補生という立場」という事実とそのしんどさやつらさも含めて、その絶妙なリアルに、現実味のあるつらさに、「つらい」と歯噛みしながらも、地団駄を踏みながらも、それでも救われてしまったのです。

「ありがとう」と言わざるを得ない。


ねむるという「いやお前これこの子のことちゃんと人間扱いしてんのかよ特徴だけで人間になれると思ったら大間違いだぞ」みたいな彼の名前にも憤慨していたのですが、もしかしたら芸名かもしれないとか、そういう名前そのものにもとてもエモみを感じるようになってしまいました。

感化されています。承知の上です。


アイドリッシュセブンというコンテンツ自体はリリース当初からプレイしており、なんなら候補生オーディションガチャとかいう今思うとなんの前振りだったんだよ生かせよみたいな謎の事前登録イベントから遊んでいるのですが、本格的にガチハマりしたのは、由良ねむるくんに出逢ってからです。


よく眠るというキャラメイクは、怠惰さやマイペースさ、ミステリアスさ、天才肌等の象徴のように扱われます。

有名な例を上げればのび太くんだとかねてるくんだとかもその系譜だと思います。

そういった怠惰さやマイペースさ、天才肌系統でキャラメイクされた「よく眠る、寝坊をする」キャラは巷にも割といますが、「そのことで怒られてしまうことがつらい、頑張って起きたいのに起きられない」みたいなキャラメイクをされた子を、わたしは他に知りません。

いるなら是非紹介してください。速攻でその作品を見に行きます。


由良ねむるくんに、「よく寝るキャラ」にありがちな怠惰さはありません。

多少マイペースではあると思いますし(この性質でマイペースでなかったら鬱で死んでしまう)、天才肌的な設定ではあるようですが、それもそこまで顕著ではありません。

むしろ、頻繁に「ごめんなさい」を連発し、言葉尻を濁すような話し方をするチャットの文面から見ても、恐らく自信がない方なのだと思います。(土壇場では割としたたかな感じの発言はしていますが)

しかしどんなに自信がなくても、どんなに自分が悪いと思っていても、起きられなくて仕事をすっぽかしてしまう時点で、怒られてしまうだけでなく、もしかしたら周囲からはまるで自信があったり不遜なように思われてしまうのかもしれません。

そんな彼を、主人公でありマネージャーである紡ちゃんは、否定することなくまるまる受け入れ、受け止め、勇気づけてくれました。

「協力するからなんとかなる方法を一緒に探そう」「頑張りましょうね」と言ってくれました。

(一般的に見れば問題のある子を受け止めて勇気づけて奮起させてしまえるだけの彼女の漢気というか頼り甲斐というかマネージャー力にも感服しますが、それについてはまた別の機会に)

それだけで、否定されないというだけで、彼がどれだけほっとしたのか、考えるだけで胸が熱くなります。

「いいんだ」と、肯定されたような気がしたのです。

いいんだ。由良ねむるくんみたいな子がいたって、全然いいんだ。

寝過ぎるからなんだ。確かにそれで仕事をすっぽかしたり遅刻をしてしまうのは悪いことだけど、でも、それがつらくないということにはならない。

悩んでいることは間違いじゃないし、そのことで他人に迷惑をかけているからといって、むしろだからこそ、そのことも込みで、つらいと言ってはいけないことにはならない。

苦しいことは苦しいと言っていいし、それがどんなに他人に迷惑をかけている事象であったとしても、だからこそ、本人がつらいならば、つらいという感情そのものは、否定されることがあってはならないとわたしは思う。


眠りすぎるという性質込みでの彼の存在を、否定していい人間なんて、誰もいません。

メインキャラクターの彼らと彼らがそれぞれ持つ性質を、否定していい人間なんて誰もいないのと、同じように。


よく眠るキャラメイクをされたキャラクターが巷にそこそこ溢れるなかで、きちんと「そうであることのつらさ」を描き、キャラクターに「つらい」と言わせてくれた、「お医者さんに行ってもダメだった」とまで言わせてくれたその誠実さと、その上で、ヒロインがそれを否定せずに「一緒に頑張ろうね」と寄り添う意思を示してくれたことは、娯楽コンテンツでのキャラクターへの向き合い方としては、非常に稀有なものなのではないかと思います。

ありがたいことです。

しかも、何度も言うようですが、彼はサブキャラクターです。

サブキャラクターにそれだけの現実味と誠実さを盛り込み、(それがキャラクターとしての役目とはいえ)ヒロインにきちんとそれを肯定させてくれたことや、サブキャラクターに彼のようなキャラクターを置くことにどういう意図があるのかは定かではありませんが、そこに意味があるのだと、公式もなにか思うところがあるのだと思いたい。

(それはそれとして「メインになれないキャラにも色々いて色々あるんだという比喩か?リアリティか!?」と勝手に考察してエモいエモいと喚いてはいます)


普通の人が彼を見て、彼のラビチャを読んでどう思うのかはわかりません。

かわいいと思ってくださる方もいるでしょうし、エロティシズムに結びつける方もいるかもしれません。可哀想だと思う方もいるかもしれません。「そんなに寝られるの?」と不思議がる人もいるかもしれません(実際問題寝られる人間はいくらでも寝られるし起きられない人間はなにやったって起きない)。そもそも候補生にスポットが当たっていないので、彼のラビチャを読んでいる方の方が少ないかもしれません。

それでも、わたしには彼は特別です。

例え彼のことを誰がどんなにモブだのエサだの呼ぼうと、どんなに知られていなかろうと、どんなに彼自身がアイドリッシュセブンというコンテンツの中で報われなかろうと、どんなに公式が候補生を振り返ってくれなかろうと、他ならぬそんな彼の存在に救われてしまったひとりの人間がいるという事実は、変えることはできません。


由良ねむるくんは誰の代わりにもなれない。


彼はサブで、名前があるのにモブ呼ばわりされたりもするうちのひとりだけど、それでも、わたしには彼は特別な存在だし、わたしの人生には彼が必要だった。

彼がいてくれたから、わたしはしんどかったあの時に、「だからなんなんだよ!」と開き直ることができた。


彼を思うだけで、彼が向こう側のもうひとつの次元でわたしとよく似たしんどさを抱えながらも頑張っていると思うだけで、わたしも頑張ろうと思えるのです。


「アイドル」というものの定義が、その存在によって、輝きによって、誰かを幸福にしたり元気にしたり勇気づけたりすることならば、わたしにとって彼は間違いなく、誰にも及ぶことのできない、オンリーワンのトップアイドルです。


そして、誰に蔑ろにされようと、どんなにコンテンツの主役になれなかろうと、彼の人生の主役は、主人公は、彼なんだ。


自覚しているかはわからないけど、それを必死に体現しようと、きちんと自分の時間の主人公であろうと抗おうとしている、誠実な君の姿を、本当に少しだけれど知っています。

起きられなくてもいいよ。目覚まし時計何個使ったっていいよ。誰に責められたって、たとえ誰も君のことを見ていなくたって、わたしは君の味方です。

生きていてくれてありがとう。この世に生まれてきてくれてありがとう。アイドル候補生でいてくれてありがとう。わたしは君の誕生日も知らないけど、それでも、君を生み出してくれた、君に関わるすべての人に、本気で感謝しているんだ。


彼に出逢っていなければ恐らく今のわたしはいません。

けれど幸福なことに、わたしは彼に出逢うことができた。

公式がスポットを当ててくれない、モブ同然の扱いをされているサブキャラクターが、それでも現実の人間の時間を動かしたこと、これはものすごいことではないでしょうか。

フィクションやキャラクターは人間を(主に精神的に)殺しもするけれど、救いもする。

それを、改めて体感させてくれた由良ねむるくん及びアイドリッシュセブンというコンテンツには、本当に感謝してもしきれないと思っています。

そして、人間を殺しもすれば救いもする、それらのフィクションやキャラクターに、メインだのモブだのの貴賤はありません。


思うところがありすぎて文章がぐちゃぐちゃですし、キャラ解釈を盛りすぎているところがあるかもしれませんが、それだけサブキャラクターに思い入れを抱く人間がいるということ、 誰かが目にも止めない、もしくは誰かがモブと呼ぶキャラクターが誰かを救うこともあるのだということを、ほんの少しでも頭の隅に置いていただけたなら幸いです。


そしてあわよくば、アイドリッシュセブンの候補生の魅力に気づいてくれる方が、ひとりでも増えたならば、こんなに嬉しいことはありません。


いつか、候補生である彼らが、「アイドリッシュセブン」というユニットと同じくらい、キラキラしたステージに立てることを、そんな未来が来ることを、微かな希望を糧に、切に願っています。


わたしを救ってくれたアイドルが、アイドルであり続けるために、わたしに出来ることは少ないけど、だからこそ、ちゃんと君を推したいんだ。



アイドリッシュセブンというコンテンツとモブと呼ばれる彼らについて

アイドリッシュセブンという男子アイドル音ゲーを遊んでおります。


今のところのメインキャラクターであるアイドリッシュセブン、トリガー、リヴァーレも非常に魅力的で、シナリオもドラマチックで波瀾万丈、音ゲー部分や楽曲も非常にクオリティが高く、とても面白く遊ばせていただいております。


わたしは二次元アイドルがとても好きなのですが、アイドリッシュセブンはこう、なんつーかわたしが求める「アイドルの輝き」の奔流!って感じで、非常に触っていて楽しいです。

(ちなみにわたしはメインだとリヴァーレのふたり推しです。)



しかし、今回わたしが語りたいのは、メインキャラクターや本編についてではありません。

(メインキャラクターや本編についての感想やらなんやらは恐らくわたしよりも面白く伝えられる方がいらっしゃると思いますし、メインキャラクターや本編に触れてその面白さやアイドルの輝きを体感したい方はどうぞアイドリッシュセブンで検索検索ぅ!で是非遊んでみてくださいませ…!)



アイドルものソシャゲスマホゲー等はほとんどの場合、ある種「全員がメイン」であり(実質そうなっていないという実態はさておき)、メインキャラクターにもN等のレア度の低いカードがあり、他にトレーナーさん等レッスン用カードがあるかと思われます。


対するアイドリッシュセブンには、「候補生」という枠があるのですが、彼らは他の大抵のアイドルものスマホゲームとは異なり、(贔屓目ではありますがどう考えてもメインになれるだけのキャラクターとしての素性が整っているにも関わらず)低いレア度のカードしかなく、現在「メイン」になることができておりません。


アイドリッシュセブンにもいわゆる「トレーナーさん」等にあたるレッスン用の王様プリンカードがあるのですが、Nと呼ばれるレア度にメインキャラクターはおらず、またレア度の低い同じカード同士を覚醒、つまり掛け合わせると、もう一段階高いレアリティに変化させることが出来るので、まぁ遊び方によるとは思いますが、実質候補生のNもしくはR、SRは「サブ」や「モブ」酷いと「エサ」等と呼ばれ、メインキャラクターのレッスン材料にしかならないような状態です。



それはさておき。


この「候補生」、本当にキャラメイク的に粒揃いな子達が揃っております。


まだ半分くらいの子のラビチャ(個々の信頼度を上げると読むことが出来るゲーム内チャット)しか開けられておりませんが、それでもわかるほどとても魅力的な、アイドルの卵にしておくにはもったいないレベルにキャラの濃い子達です。


本題です。

この候補生の中に、由良ねむるくんという男の子がおりまして。


かわいい。


おっと本音が。

というかアイドルの候補生なんだからかわいいのは当然です。


話を戻します。


他のアイドルもの及び他ジャンルの作品にも、「いつでも眠たい」「寝ようと思えばいつでもどこでもどれだけでも眠れる」「故にマイペース」みたいなキャラメイクをなされているキャラクターは、男女問わず一定数います。


しかし、由良ねむるくんは違いました。

他のそういった「眠たい」キャラメイクをなされているキャラクターと、「眠たい」という点に関しては同じなのですが、彼、アイドル(候補生)にあるまじき欠点があります。


(以下所々にラビチャネタバレ含みます。)



寝坊。午前中の仕事に間に合うように起きられない。すぐに寝てしまうし、一旦寝ると中々起きられない。

つまり、眠気をコントロールできない。恐らく起きたくても起きられないだけでなく、寝たくなくても寝てしまったりしているのでしょう。



候補生は今のところ公式からの情報が簡単なプロフィールとチャットのみなので、詳しくは描かれていませんが、なんでも起きられなくて仕事に穴を開け続け、前の事務所とトラブルになり、小鳥遊事務所(ゲーム内で舞台となる事務所です)に移転してきたんだとか。

(つまり他の事務所でのアイドル経験があるということでそれはそれでとても個人的にぐっとくるのですがそれはさておいて。)


また、彼のラビチャを開けてみるとわかるのですが、彼、その事に関して悩み、大変苦しんでいます。そのせいか、ラビチャ内でしょっちゅう「ごめんなさい」だとか「僕なんか」のような自信なさげな発言をしています。


大抵の「眠たい」キャラ付けをされた子には、それを免罪符として許されるだけの癒しオーラがあったり、面倒を見てくれるキャラが側にいたりする気がするのですが、彼にはそれもありません。

(いや、上手くやればそれだけの癒しオーラを纏えるだけのポテンシャルは十分にあると思うんですが、いかんせん作中雰囲気が絶妙に現実的で「かわいいから、癒し系だから」などという甘っちょろい理由で遅刻が許される空気ではないのです。)


極めつけが、「お医者さんに行ってもだめだった」という記述。


信じられますか。

この子、モブだとかサブだとか言われてる立ち位置の子ですよ。


重い。

いくらなんでもしんどい。

推さざるを得ません。

推さざるを得ません。


公式から供給されたカードはN、R、SRの三種のみです。


他の候補生の子の中には、NとRしかカードがない子もいます。

信じられますか。

候補生といえどアイドルなのに、普通にイベントの主役を張れるレベルのキャラメイクをされているのに、なんてもったいないことをされているんだと思うわけですよ。


推さざるを得ません。



由良ねむるくんだけでなく、アイドリッシュセブンの候補生には、各々事情は異なりますがそれだけの強みや濃さを持ったキャラクターがたくさんいます。


メインキャラを追いかけてアイドル候補生になった子、方言がコンプレックスで無口キャラを演じる子、アイドル候補生なのに歌が微妙な子、シャイ故に強気な態度を取る元ベーシスト、遅刻やサボりを繰り返す故不真面目なレッテルに甘んじる青年、果てはサブなのに謎のブロマンス関係を築くふたり組や官能小説家であることをカモフラージュするためアイドルになった男子高校生まで。



なんでサブやねん。


正直、メインとは別に、候補生のみで別のアイドルゲームをつくれそうなほど濃い子達ばっかりです。


なんでサブやねん!!



わたしは二次元アイドルが好きです。

二次元アイドルの輝きと、彼ら彼女らがその輝きの裏で抱えているはずの、たくさんの辛さやしんどさを想像するのが好きです。


アイドリッシュセブンというコンテンツのメインキャラクター、及び彼らが紡ぐ物語には、十分すぎるほど、わたしが想像したかった、触れたかった、尊く美しい輝きと、その裏側の途方もない苦しさがたくさん詰まっていて、惜しげもなくその両方が描かれていました。


しかし、候補生の子達のそれぞれのたった3話ずつのラビチャには、同じだけの、もしくはメインの彼らとはすこし違う種類の辛さが、同じくらいの質量で詰まっていました。


もちろん、それで満足しているわけではありません。

彼らは候補生といえど、アイドルです。

あわよくば、表舞台に立たせてあげたい。ステージの上で輝いている姿が見たい。


しかし、今のところ望みは薄いです。

贅沢は言いません。

どうか、彼らの魅力に気づいてくれる方が、一人でも増えますように。

ただそれだけです。

今のところは。



そういえば、アイドリッシュセブンは8/20で一周年を迎えるそうです。


おめでとうございます。


メインシナリオも二部までほぼ全部読んだので、メインの彼らも必死に足掻き、頑張っているのを知っています。


ありがとう。君たちがいるから、候補生の彼らもこの世に生み出されることが出来たのだと思います。


最初に比べれば少しずつ候補生の彼らを好意的に見て応援している方も増えているようで、候補生に肩入れしている身としては大変嬉しい限りです。


そして、もしもアイドリッシュセブンをプレイしているマネージャーさんの中で、まだ候補生のラビチャを開けていない!という方がいらっしゃって、わたしの駄文を読んで候補生に興味を持っていただけたなら、是非この期に気になる子のラビチャを開けて読んでいただけると嬉しいです。




わたしと過眠症の遍歴

前回、わたしは特発性過眠症である、という旨の記事を書きました。

そこに至るまでのなんとなくの経緯を書きたいと思います。

小学校時代は、一度参観日に本気で寝たことがあるのみで(その節は母に非常に恥ずかしい思いをさせたそうで申し訳ない)、その他は普通の他の子と大して変わらなかったように思います。確か、夜寝るのは早い方でした。

中学校時代から本当によく眠るようになりました。

両親の「毎日学校にだけは行って提出物だけはきちんと出せ」という教育方針のおかげか、寝過ぎる以外は比較的問題のない真面目な生徒だったため、授業中に寝過ぎて先生に「大丈夫?病気じゃない?」と逆に心配され「へへ大丈夫っす病気とかじゃないっす」みたいな感じで適当にごまかしておりました。その時は本当に「なんかめっちゃ寝てるけどまぁこんなもんだろ」と思っておりました。

高校時代は、母校に当時真面目な生徒が少なく、授業中はみんな寝るか遊ぶかみたいな感じだったので問答無用で普通に寝ており、しかも寝ててもそんなに目立っていなかったので、中学時代から続く「そこそこ真面目な子」というレッテルが功を奏し、死ぬほど寝てても「まぁ提出物だしてくれるから」みたいな感じで多目に見られていました。

(というか私を越える問題児が他にいっぱいいたのでそんなに問題視されていなかった)

専門学校に入ると、怒濤の課題地獄に日々を追われるようになります。

座学の授業中は相変わらず死ぬほど寝ていたのですが、それも含めネタにされるのみで「そういうキャラ」と認識され、「そういうキャラ」として受け入れられたのでそのまま押し通しました。

課題をやってる間は大抵切羽詰まっていたのと如何せん好きなことをやっていたので比較的寝ずにすんでいました。あと座学中も課題中も寝ても両脇に起こしてくれる友人がいたので本当にありがたかった。

問題は社会人になってからです。

幸いなことに新卒で派遣系の会社に内定をいただき、一人暮らしを始め、勤め始めたのはいいのですが、寝坊は一回もなかったものの、出向先で思いっきり寝てしまうようになりました。

毎日です。

最初の方は割と起こしてもらえていましたが(新人だったのと紅一点だったのがよかったのかもしれません…)、さすがに毎日、しかも一日に何度も寝ている人間がいては、示しがつきませんし仕事になりません。

段々と注意する声に呆れが混じるのが見てとれるようになりました。

「顔を洗ってきな」と何度も言われるのですが、さすがに薄くでも化粧をしていて、化粧直しの道具など持っていく習慣がなかったので(これはものぐさなわたしが悪いのですが)、洗えるわけもなく、そう言われる度にトイレで延々頭を振っておりました。(今思うと変な新人ですね…)

だいたい顔なんか洗ったって眠気が飛ぶはずもないのは今までの経験でわかっているんですが、そんなこと伝わるはずもありません。

わたしも早く寝るようにしたり(比較的夜型なので今思うとそれはそれでしんどかった)、眠くなるとトイレに立ったり廊下を歩いたりして(眠いと思う前に寝落ちることもしばしばでした)誤魔化し誤魔化しやっていたのですが、もちろん一向に効果はありませんでした。

終いにはこっそり首の裏や腕を思いきりつねったり手の甲にシャーペンを刺しまくったりしましたがダメでした。

寝ました。

普通の人は首や腕をつねったり手にシャーペンを刺したりといった痛みで目が覚めるものなのでしょうか。

というか専門時代眠すぎて友人にビンタを頼んでも一向に眠気が飛ばなかった人間にそんなちんけな痛みが効くはずもなく…(その節は非常に迷惑をかけました、ありがとう友人)

ある日とうとう、呼び出しを食らいました。

幸いなことに物わかりのいいおじさまが上司だったので、怒られることはありませんでした。

というか心配されました。病院に行けと言われました。

呼び出されて一週間もしないうちに約三ヶ月の休職を言い渡されました。

イヤな新卒ですね。

しかしこの頃は本当に精神的にしんどく「どうしたらいいんだ」と途方に暮れていたので申し訳ないですが逆にありがたかった。

そのあと一ヶ所心療内科を受診し「眠れないんじゃなくて寝すぎるなら睡眠専門の医者に行った方がいいんじゃないの」と半ば門前払いを食らい(それはそれで医者としてどうよという感じなのですが)、ネットで見つけた睡眠専門の病院にかかったところ幸いなことにそこでお世話になることになり、経過を観察しながら三ヶ月の休職をだらだらと食い潰しました。

そのまま辞めることになりました。

イヤな新卒です、本当に。

よくしてもらったのに恩を仇で返すような形になり、今思い返しても本当に申し訳なく不甲斐ないのですが、このきっかけがなければ病院にかかることもなかった気がするので、まぁよしとするかという感じです。

本当は休職期間の三ヶ月のうちに検査が出来ればよかったのですが、予約が取れず(意外と過眠の検査を受けられる方って多いようです)、検査が受けられたのは離職後になりました。

(検査のことやそのあとの投薬等のことは別記事で書きたいと思います)

そのあと約半年強程の無職期間を経て、とりあえず現在に至ります。

ビョーキだと判明した今、とりあえず職にはありつけていますが、どうしても昼間寝てしまいます。

周囲に恵まれているのか、不思議なことに今までほとんど寝坊したことはないのですが、大抵出先で死ぬほど眠くなって寝るので、多分トータルで見るとそんなに変わらないです。

(なにもない日はその気になれば夕方くらいまでめちゃくちゃ寝てるのですが、外出予定がある日に致命的に寝坊して遅刻したことはほとんどないです、奇跡!)

相変わらず四六時中眠いは眠いですし、眠いと思う前にもう半分気絶のような形で寝落ちることもしばしばあり、相変わらず途方に暮れてはいますが、まぁどうにか元気です。

というか周囲を気にしていたら(気にしないでいられていると言えるほど気にしないでいられるわけではないのですが)精神的に死んでしまうので、「しゃらくせぇ!仕方ねぇんだ!」と開き直っています。

また本当はよくないのですが、如何せん起きていられる時間が少ないので、とりあえず起きてる時間に動こう、やりたいことをやろうと思うと睡眠時間がどんどんぐちゃぐちゃになり、それをどう直そうかも思案中です。

しかしやりたいことをやらないのもそれはそれで精神的に死んでしまうことを最初の就職及び生活で学んだので、兼ね合いがまた難しいです…

やりたいことをやって生きていけるよう頑張ります。

時間は限られていますからね!

生活とやりたいことと睡眠時間を天秤にかけると時間が圧倒的に足りないのが目下の問題ですが、しかし、困ってはいますが、眠ることが苦痛ではないことは非常に幸福だったと思います。

今も昔も寝るのが好きです。

また、そういう性質でなければ得られなかったもの、考えることが一切なかったであろうことも多々あるので、個人的にはプラスマイナスゼロくらいなのかなとポジティブに考えています。

経過としてはこんなところでしょうか。

こんな駄文ですが、誰かのお役に立てたならば幸いです。

「特発性過眠症」について

特発性過眠症、という病気を知っているでしょうか。

読んで字のごとく、いつも眠い病気です。

なんでも、同じ過眠症というくくりであるナルコレプシーよりも患者数が少なく、例が少ないんだとか。

 

わたしは特発性過眠症です。

明確な診断をもらったのは1年弱ほど前ですが、おそらく中学生くらいのときから患っていたものと思われます。

学生時代は寝すぎて先生に心配されたり、寝すぎてネタにされたりいじられたりしていましたが、なんだかんだへらへら適当にやりすごしていました。

が、社会人になり、仕事中もものすごく寝てしまい、というか寝ているという自覚もなくフッと意識が飛ぶということを繰り返していたらしく、「ちょっと寝すぎでしょおかしいよ」と言われ、病院に行って検査を受けた結果今に至ります。

(このへんは別記事で詳しく書けたら書こうと思います)

 

余談ですが、診断をもらって「なんだその特発性過眠症とかいう謎のなにかは」と調べたとき、そこそこ有名なナルコレプシーよりも患者数が少ないと知って、「え?なにそれレアじゃん!」とよくわからない理由でテンションが上がりました。わたしのなかに住むちゅうがくにねんせいが黙っちゃいなかった。不謹慎ですが。

 

症状はなんぞや、というと、まぁ書いて字のごとく四六時中ねむたいわけです。

診断を受けた当初もネットで散々調べましたが、ナルコレプシーに比べあまり情報がなく、1年経っても未だよくわからんぞいみたいなところがあります。

が、1年経って「わたし」というサンプルデータは自分で取れてきたかなと思うので、それを含めブログで書けたらと思っております。

 

わたしの場合、起きていればいつでも眠たい、眠たくないことの方が稀、いつでも寝ようと思えば寝られるし、なんなら立ったままでも寝られるし、眠気の度が強いときはなにもせずに座っているだけで気がついたら意識が飛んでいる、という感じです。

好きなことに集中しているとき、手を動かす作業をしているとき、人と話しているとき、は、比較的とちゃんと起きています。死ぬほど眠いときは例外ですが。

(この間あまりに眠すぎて、ひとりでの通勤途中気がついたら歩きながら寝ていて死ぬかと思いました。マジでこわかった。)

 

現在は、とりあえず昼間の普通のお仕事をしています。

デスクワークなので、職場の方々には迷惑をかけてはいますが、事情を説明し「寝ていたら起こしてください」という形で甘えさせていただいています。

迷惑なのは重々承知なので、その辺も含めどう改善していこうか色々模索中です…

 

前途多難ですがまぁ精神的にも肉体的にも死なずに生きてるのでよくやっていると思います...(自画自賛)。

そんな感じでとりあえずどうにかなっているので、引き続きどうにかやっていけることを願うのみです。